なぜスパイになったのか?
博物館がある場所は桃園市の忠貞新村と呼ばれる地域だ。緬北孤軍の帰還者たちが暮らし、台湾で「眷村」と呼ばれている元軍人の多い地区である(と言っても、緬北孤軍の兵士たちは雲南やミャンマーの出身者が多いので、「帰還」と呼ぶのも変なのだが)。
緬北孤軍は正規軍ではなく極秘作戦も多かったことから、台湾への「帰還」後も十分な保障が得られず、近年までは忘れられた部隊として扱われてきた。ゆえに帰還者たちの暮らしも厳しく、忠貞新村は近年まで貧しい地域だった。
だが、現在はグルメと旅行の街に生まれ変わっている。なかでもおすすめは本場の雲南料理店だ。王根深はこの村でも成功者であり、雲南系レストランを何軒か経営している。店内に連れて行ってもらうと、若者で満席。壁には王根深や奥さんの現代アート風の絵が描かれ、店内にも光武部隊時代の武器が展示されていた。中華民国にとって過去のミャンマーの作戦は完全に歴史の遺物であり、参加者が情報工作の過去を明かしても問題ない。なので、スパイがコンセプトのレストランを経営しても大丈夫というわけだ。
民国政府から緬北孤軍のOBたちに対する待遇も、ここ10年ほどで劇的に改善したという。台湾アイデンティティが強い民進党政権もこの問題には理解を示しており、蔡英文前総統もこちらの異域故事館を訪問している。
王根深の店でスパイ仲間たちと合流
夜、王根深の店で雲南料理をごちそうになりながら往年の話を聞いた。他に光武部隊を経験した老人たちもやってくる。円卓に座る5人のうち、私と友人を除く老人3人の全員が殺人の経験があるというすごい食卓だったが、老人たちはみんな温厚だった。
元隊員で、一般兵士にも特殊工作員にも従事した経験がある陳克江は話す。
「中国側の国境警備部隊と戦闘になり、自分があちらを3人殺して、こちらの上官と戦友が死んだ。秘密工作のときは、腰に銃を差して、圧縮ビスケットの携帯食料と手榴弾を持って雲南省側に潜入するんだ。橋の爆破とか、なんでもやった。街で協力者にカネを渡して情報を取らせて、台湾・アメリカ・日本に流す」
彼らの仲間の功績が、林彪の死亡情報の入手だ。林彪は当時の中国のナンバー2で、毛沢東の後継者と目されたこともあったが、1971年にクーデターに失敗して逃亡。搭乗機の墜落で同年9月13日に死亡している。ただ、文化大革命体制の中国からはながらく情報が出ず、その生死は不明だった。林彪の死亡について、確定的な情報が最初に流出したルートは、この光武部隊の雲南省諜報網だったとされている。

