MLBワールドシリーズで、大谷翔平が所属するドジャースは、ブルージェイズと「世界一」の座をかけて熱戦を繰り広げている。

 

その大谷が、日本ハムで「日本一」に輝くまでの軌跡を描いた話題作が、ノンフィクション作家・鈴木忠平氏の「No time for doubt ―大谷翔平と2016年のファイターズ―」だ。

 

2016年7月3日。大谷は、ソフトバンクとの試合で「1番・投手」で先発。初球でホームランを打ち、「二刀流」の開眼を印象付けたーー。この歴史的瞬間を、大谷の担当記者はどう見ていたのか。連載第2回から一部抜粋します。(この連載の第1回全文を、ワールドシリーズ終了まで特別無料公開中です)

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大谷を注視し続けた記者

 球審が右手を上げてプレーボールを発すると、ソフトバンクホークスの先発ピッチャー中田賢一が投球モーションを起こした。それに合わせて左打席の大谷が黒褐色のバットを立てる。本間翼は、その光景をドーム1階のプレスルームで見ていた。北海道日刊スポーツ新聞社のファイターズ担当記者として、1球も見逃してはならないと、モニター画面を注視していた。

 次の瞬間、乾いた音がして打球が上がった。まさかと思う間もなく、白球はドームのテラス席を飛び越え、外野フェンスも越えて右中間スタンドに消えた。本間はスコアブックとボールペンを手にしたまま動けなかった。スタジアムのどよめきが、プレスルームにまで聞こえていた。

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「1番、ピッチャー」の策にも動じることなく結果を残した Ⓒ文藝春秋

 この時点で本間は、全国各地にいるどの記者よりも多くの原稿を書くことが決まった。どこで何が起ころうと、この衝撃を上回るニュースがあるとは思えなかった。こんなとき、担当記者の胸中は揺れるものだ。割れると言った方がいいかもしれない。一面から三面まで思う存分に原稿を書いて、紙面の主役を張ることができる優越感の一方で、できればその重圧から逃れたいという気持ちが生まれる。その心境は、程度の違いこそあれ、9回裏ツーアウト満塁の逆転サヨナラがかかった場面で打席に向かうバッターや、満員に膨れ上がったホールのステージへ上がる前のミュージシャンのそれと似ているかもしれない。つまり、その瞬間のために仕事をしているはずなのに、いざ目の前にすると逃げ出したくなるのだ。

画像はイメージです ©GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート

 例えば、福岡ドームのプレスルームを埋めているホークス担当の記者たちは毎年のようにチームの優勝を見届け、紙面の主役を張っていた。だからだろうか、彼らはたとえホークスが勝っても、拳を握るより先に苦笑いを浮かべる。常勝球団やスター選手を取材する誇りを胸に秘めながらも、重たく膨大な仕事への憂鬱が先に脳裏に浮かぶからだ。だが、この瞬間の本間の頭には仕事のことも締め切りのこともなかった。思ったのはただ一つだった。勝ってくれ。ファイターズの勝敗に人生を左右されることのない、第三者であるはずの新聞記者は自らの仕事より先にそれを願った。