なぜリアルな美人画を描けたのか
歌麿はなぜ、心情的にもリアルな美人画が描けたのだろうか。松嶋雅人氏は「これは私の想像ですが」と断ったうえで、こう記す。「歌麿のなかには女性の心情と共振するような、特別な何かがあったのではないでしょうか。男の理屈で考え、男の目で、『女性はこうあってほしい』『女性はこうあるべきだ』という女を描いたのではなく、彼には女性の心の機微がわかる、そういう女性性というか、女性の感性があったように思うのです」(『蔦屋重三郎と浮世絵』NHK出版新書)。
大首絵で評判を勝ちとると、蔦重は歌麿に女性の全身像も描かせる。寛政6年(1794)ごろの『青楼十二時』がそれで、女郎の1日を1刻ごとに追った12枚のシリーズである。鳥居清長風の八頭身の美人像だが、普通は人に見せない女郎の日常や、着飾った場面の裏の姿が描かれており、やはり心情表現のリアリズムが傑出している。
ところが、歌麿は寛政6~7年(1794~95)ごろから、蔦重とは距離を置いて、ほかの版元から錦絵を出すようになる。若狭屋、岩戸屋、近江屋、村田屋、松村屋、鶴屋……。その理由は、歌麿の自負心との関係で語られることが多い。
蔦重のもとから刊行された歌麿の美人画には、「歌麿筆」という署名の上に蔦屋のマークがある。これは蔦重と歌麿との関係性を示していた。すなわち、「これは蔦重がアートディレクションをして歌麿に描かせたという蔦屋優位を世間に示すものです」(前掲書)。
自分の力を露骨にアピール
前掲書には続いて、こう書かれている。「まだ売れていないうちならいざ知らず、人気がでれば自分はもっとこんな絵が描きたい、こんなふうに描いてみたいと思うもの。浮世絵は版元優先とはいえ、歌麿は我慢ならなかったのでしょう」。
その後、蔦重は東洲斎写楽に傾注するが、だからといって、ドル箱の歌麿を蔦重が簡単に手放すとは考えにくい。やはり、自負心の強い歌麿が蔦重と袂を分かったと考えるのが自然だろう。