しかし、蔦重と組んでいた寛政6年ごろまでが歌麿のピークだ、というのが一般的な見方である。以後は、歌麿ならではの描写力や心情表現の才能をどう活かしたらいいか、わからなくなったという指摘がある。プロデューサーとしての蔦重の存在がいかに大きかったか、ということだろう。また、次から次へと寄せられる注文に応えるためには、門人を動員し、工房として生産する必要がある。すると、どうしても絵から深みは失われる。

そういう状況を実感していたからか否か、歌麿は自分の力を露骨にアピールするようになる。

たとえば、寛政7~8年(1795~96)ごろに近江屋から出した美人大首絵『五人美人愛敬競兵庫屋花妻』は、「歌麿筆」の上に「正銘」と記され、「本家」と書かれた印も押されている。さらには、画中の女性が読んでいる手紙に「人まねきらい」「美人画ハ哥子にとゝめ参らせ候(美人画は歌麿にとどめを刺す)」と書き込み、強烈な自負心が示されている。

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自負心が強いがゆえの模索

ほかにも寛政8~10年(1796~98)ごろに鶴屋から刊行された『錦織歌麿形新模様』というシリーズ内の「白うちかけ」には、画面左上に巻物をかたどった文章が配置され、「自分の画料は鼻とともに高い」と自画自賛する一方、ほかの絵師は「蟻のように出てくる木の葉絵師」だとしている。

強烈な自意識だが、蔦重と離れてしまっては――しかも蔦重は寛政9年(1797)に死去する――。自分の絵の方向性を手探りしながら、虚勢を張らざるをえなかったのかもしれない。

歌麿が離れてから、蔦重は歌麿と同じ鳥山石燕門下の栄松斎長喜(えいしょうさい・ちょうき)という画家を、美人画家として売り出している。長喜の描く美人も歌麿が描く美人に似たうりざね顔で、しかし、歌麿の絵にくらべると、なで肩で体はほっそりしている。先述した歌麿の「人まねきらい」という言葉は、長喜のことも意識しているのかもしれないが、歌麿自身、長喜の絵に似たほっそりしたなで肩の美人も描いている(『五人美人愛敬競』の「松葉屋喜瀬川」など)。