「何でも口にしていい」と言われて選んだのは……

 自宅に戻り、クリニックの医師から、食べられるものは何でも口にしてもいいと許しが出たので、食べやすそうなものを片っ端から用意した。最初はプリンやヨーグルトなど液体に近いものをひとさじだけ味わっていたが、徐々に欲が出てきた。何が食べたいか、何なら食べられるか、ふたりで真剣に話し合うことになった。

 保雄はかなり悩んだ末、3つ選んだ。ひとつは〈Y〉という蕎麦屋の出汁。ひとつは行きつけの洋風居酒屋〈W〉が季節になると特別に作るトマトのムース。そしてもうひとつは、六本木に店を構える〈P〉というフレンチレストランのコンソメスープ。

 私はすぐにそれぞれの店に連絡を取り、事情を話し、無理を押して、とっておきの品を作ってもらうように頼んだ。一緒に地方の酒蔵へ旅行にも行ったことがある〈Y〉の店主は、鰹節と昆布だけで取った出汁と、かけそばのつゆ、身体に良いからと黒舞茸だけで取った出汁の3種類を用意してくれた。

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 出来立ての出汁のそれぞれを、ひとさじずつ口に含ませると、むせないようにゆっくりと飲みくだす。保雄が好んだのは、鰹節と昆布だけの出汁だった。小さなぐい飲みに注ぎ、ティースプーンに1杯ずつすくい、口に運ぶと、目をつぶって香りと味を楽しんでいる。

行きつけだった蕎麦屋の出汁を、おいしそうに味わっていた 画像はイメージ ©hanasaki/イメージマート

 ふいに目を開けて、絶対に飲み込まないから葱と柚子を刻んで入れてくれないかと頼まれた。すぐに用意し、人肌に温めた出汁に入れて混ぜ、またひとさじ口に入れると、「こんなに美味い出汁はないね」と目を細めて喜び、時間をかけてゆっくりと、そのぐい飲み一杯を飲み干した。

 外見は普通の居酒屋だが、シェフがフレンチ出身の〈W〉では、春先にとっておきのフルーツトマトを使ってムースを作る。保雄はこれが大好きで、白ワインと一緒に楽しんだものだ。

 頼んですぐはシェフの納得できるトマトがまだ出回っておらず、少し時間がかかったが、「できたよ」と連絡をもらってすぐにテイクアウトした。柔らかいとはいえ固形なので、口に入れる時に少し緊張したが、舌の上で転がすように味わっている。

「白の冷えたワインが飲みたいなあ」と言うので開けようかと訊くと、「さすがに飲めないよ」と笑って拒否されてしまった。酸味と甘みのバランスが絶妙な、格別な味わいだったようで、どうしても直接お礼が言いたいとベッドの上から電話をしていた。