「最後の味」は、黄金色のスープ
かつて神戸に店を構えていた〈P〉は、亡くなった母のお気に入りでもある。この店のシェフと保雄はとても気が合っていた。誕生日や結婚記念日には必ずここで食事をした。ふたりで行った最後のディナーは保雄の66歳の誕生日祝いだった。“おめでとう”とチョコレートソースで描かれたデザートの皿を前に微笑む写真が、まさか遺影になるとは思わなかった。
ここのコンソメスープの風味は、保雄にとって最上の味だったようだ。シェフには重篤な症状であることを説明していたが、これほどだとは思ってもいなかったのだろう。スープはなかなかできてこなかった。
徐々に具合が悪くなり、身体のあちこちの痛みもひどくなってきたので、そろそろ強い鎮痛薬を増量して意識レベルを落とさないとかわいそうだ、と医師の判断が下った日、シェフから「ようやく満足できる品ができた」と連絡がきた。車で運んできてくれたスープは、出来立てでまだ温かい、黄金色をしたスープだった。
シェフ自身にサーブしてもらい、スープスプーンひとさじの半分くらいを口に入れると、目を細め、「すごく美味しい。本当においしい」と何度も言って、「ありがとう」を繰り返す。私も御相伴にあずかると、確かに以前味わったことのある極上の香りと味だ。
後で遅くなった理由を訊くと、シェフはとびきりのダブルコンソメというスープを作るため、野生のエゾシカが手に入るのを待っていたのだそうだ。入手に手間取って申し訳なかった、と謝られたが、保雄が今生で味わった最後の味があのコンソメスープだったのは、本当に幸せなことだったなあと思う。
その日の夕方には麻薬性鎮痛薬(オピオイド)の投与を始めることは決まっていたのだが、担当した訪看さんは私の話を聞いて、スープが届くまで処置を待ってくれた。保雄が十分に味わい、シェフと一緒に写真を撮り、別れの挨拶をしてから麻酔を打った。彼は満足して眠ったのだ。
その翌日、桜の開花宣言が出され、自宅近くの桜もほころんだ。たまたま見舞いに来ていた弟が、その桜をビデオ通話で中継してくれた。保雄は半分うとうとしながらもそれを見て、「桜が咲いたんだね」と嬉しそうに言っていた。
桜の季節は駅まで続く長い桜並木の下を、毎年、昼も夜も連れだって散歩したものだ。その日咲いたのはほんの数輪だったけれど、「もうすぐ満開になるよ、咲いたらまた散歩しよう」と言うと、こくりとうなずいてくれた。
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