《でも、もう脚本も書いちゃったし、お金が集まるまで待ってられない。年も取っていくし。それで結局、自腹で作ろうと腹をくくりました。イチかバチかです》と石田は振り返る(『週刊金曜日』2025年7月25日号)。制作費は3000万円ほどかかり、撮影した映像の編集も、編集ソフトの使い方を覚えるところから始めて自分一人で手がけたという。

石田えりのインスタグラムより

 こうと決めたら腹をくくって、体当たりしていくということを、石田はこれまでたびたび繰り返してきた。1993年にドイツ出身の世界的な写真家ヘルムート・ニュートンの撮影で写真集『罪―immorale―』を刊行したときもそうだった。

29歳で離婚、“世界的写真家”とヌード写真集に挑戦

 この写真集を出す前の数年間、彼女は公私ともにつらいことが続いていた。29歳になっていた1990年には、その5年前に結婚して以来、互いに傷つけ合うことが絶えず、生活は地獄のようだったというミュージシャンの夫と離婚している。当時はとにかく疲れ方が異常で、人間不信に陥り、周りがみんな敵に見えた。潔癖症のようにドアノブをいちいち消毒せずにはいられなくなったこともあるという。そのなかでどうしてヘルムート・ニュートンに撮ってもらおうと思い立ったのか? 彼女は次のように語っている。

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《果たして自分はこのままでいいのだろうか――そんな不安のなかで、自分を(さら)け出さなければ女優として正々堂々と生きていけない、そう強く感じ始めていたんです。/裸になるのであれば、ただ脱ぐのではなく、世界一のヌード写真集を目指したいと思っていました。そして、そのときの私が世界一のカメラマンだと思っていたのがヘルムート・ニュートンだったんです》(『週刊現代』2014年1月4・11日号)。

 ズタズタになった精神状態から脱却すべく、そう目標を定めてからというもの、写真集の話が来るたびに「ヘルムート・ニュートンじゃなきゃやらない」と言い続けた。これに対し、オファーしてきた相手からは「おまえごときに彼がやるわけないじゃないか」とあざ笑うような反応を受けたという。だが、やがて、ある出版社の人が自分の仕事でもないのにヘルムートへの交渉役を買って出てくれた。藁にもすがる思いでお願いすると、しばらく経ってその人から連絡が入る。それは彼女が自分を打開する作戦の第2弾として、31歳の夏(1992年)、短期の語学留学のためアメリカに到着したその日のことだった。