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弥生時代から集落があった?
この一帯、那珂川市側も春日市側も、古い地図を見るとかつてはまったくの農村だった。だからこそ、広大な土地を必要とする車両基地の建設地として白羽の矢が立ったのだろう。
車両基地建設計画が持ち上がった当初は、先祖代々の田畑を取られてたまるかと反対する声もあったとか。が、国家的事業への協力という大義によって矛を収め、1974年に車両基地が完成している。このことが、純農村地域の都市化への第一歩になった。
さらにうんとさかのぼると、この地域には弥生時代から古墳時代にかけて、かなり大規模な集落があったという。
なんでも、『魏志倭人伝』などに登場する「奴国」の中心がこのあたりだったのだとか。一帯から多数見つかっているという遺跡のどれかが、奴国王の邸宅だったのかもしれない。
真偽のほどはともかく、少なくとも東には大野城や太宰府といった要衝が控え、背後には背振山脈という平野部が、大陸との関係如何が重要だった時代において大きな役割を果たしていたことは間違いない。
ただ、そうした役割は早い段階で失われ、長らく農村地帯として歴史を刻む。細く曲がりくねった路地は、農村時代の名残というわけだ。
そんな農村が一変したのは戦後になってから。




