絶対に終電で帰る

 だが、実際のところ、当時の夜の盛り場に目立って見えたのは、「機械的な一日の勤労」からの解放を謳歌するような飲み手ではない。むしろ、享楽的な飲酒施設で過ごす時間においてすら、「機械」と「勤労」に縛られ続ける飲み手たちの姿であった。

 盛り場に集まった月給取りたちの飲酒様式を何より特徴づけたのは、翌日の労働に対する多大な配慮であった。かれらは、どれだけ大量に酒を飲んでいても、その夜のうちに家に帰り、翌日の仕事に備えようとした。つまり、余暇の大酒に伴う二日酔いを理由に、翌日もしばしば自主欠勤した鉱工業の従業員たちとは対照的な飲酒様式を、給料生活者たちは共有していた。

 一例として、ある東大教授の飲み方を見てみよう。1943年4月18日、酒宴に出席し「終電車すれすれに帰」った東京帝国大学法学部教授の矢部貞治は、翌19日の日記にこう書いている。「昨夜のウィスキーと酒で、頭がひどく痛く、起きて見てもふらふらするので実に辛いが、講義があるので、大学に行く」(『矢部貞治日記』)。二日酔いになるほど大量に酒を飲みながら、翌日の勤務日への配慮を怠らず、終電に間に合うよう酒席を後にする。そして翌朝は、二日酔いの辛さに耐えながら、きちんと定時に出勤する。夜の盛り場で典型的に見られたのは、翌日の仕事のスケジュールに拘束された、この種の勤勉で時間厳守的な男性勤労者なのだった。

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 こうした定時志向型の飲酒者の多さから、終電の時刻が近づくと、盛り場からはいっせいに人出が消えていた。1927年、著名な新聞記者であった松崎天民は、市営路面電車の最終が出た後の、銀座の味気ない光景を、次のように伝えている。

 今日の夜の銀ブラは、遅くもその終電車に区切られて、享楽の幕を閉じてしまうのは、仕方の無いことである。終電車までを命として、さんざめきのどよみを上げて居る銀ブラ人は、見ように依って不幸であり、恵まれて居ないのであります。〔略〕交通網の如何に依って、衰えもし栄えもする今日では、銀ブラなどと云っても、実に此の終電車に支配されて居る運命なのである。タクシーの便があるなどと云っても、電車を失った後の銀座は、如何に砂漠のように淋しいことよ。(松崎天民『銀座』)

 盛り場を後にした酔客たちは、自宅を目指して、近くの鉄道駅や路面電車の停車場へと向かう。そのため深夜の駅構内や電車内には、毎夜のように多くの酔っぱらいが集まることになる。「夜更けの中央線プラットフォームには銀座から新宿へ五六軒も飲み歩いて高円寺阿佐ヶ谷の住宅へ帰ろうと云う赤い顔の連中が大声で怒鳴る」(『経済往来』5巻11号、1930年)というたぐいの証言は、昭和初期の文献に数多く確認できる。