夜の繁華街で飲酒を楽しむ人口が大きく増えた1930年代。その中心を占めたのは比較的高所得で、デスクワークに専念する給料生活者たちだった、しかし、彼らが盛り場で享楽的に飲酒していたかというと、そうとは言い切れない。むしろ、「勤労」に縛られ続ける姿が浮かび上がってくる。

 そう指摘するのは、社会学者の右田裕規氏。ここでは、同氏の著書『「酔っぱらい」たちの日本近代 酒とアルコールの社会史』(角川新書)の一部を抜粋し、日本人が酒をどのように受容してきたのか、その一端を紹介する。

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夜の盛り場の誕生

 19世紀まで、昼間の空間に属した盛り場は、20世紀を迎えると、夜の空間へと急速に変貌する。職場と盛り場の間、盛り場と自宅の間を、短時間で移動できる近代的な交通機関(路面電車、官営鉄道(省線)、郊外鉄道、バス、タクシーなど)が登場し、夜遅くまで運行しはじめたこと。商店街、酒場、百貨店、劇場、映画館、電力会社などが、無数の華美な商業照明を店舗や街路にめぐらせて、夜の盛り場の風景を魅惑的なものへと変えたこと。諸々の変化に伴い、1930年代には、夜の繁華街で飲酒を楽しむ人口が大きく増えることになる。

 夜の街に繰り出し酒を飲む、このあたらしい慣行は、比較的高所得で、デスクワークに専従する給料生活者たちに、とくに目立って見えていた。「現代の盛り場はサラリーマンと云う「夜の有閑」階級のものである」と、当時からいわれていたゆえんである(石川栄耀「江戸「市井」年表(二)」)。換言すると、20世紀になって盛り場が、昼の空間から夜の空間へと転回したのには、会社員や官公吏たちにおいて、余暇飲酒が習慣化したこともまた、深くかかわりあっていた。

 とりわけ、かれらが好んで通ったのは、盛り場に林立していた接客サービス付きの酒場であった。「カフェー」ないし「バー」と呼ばれた、深夜営業型のアルコール提供施設である。内務省警保局が出した数字だと、1930年度のカフェーとバーの国内総数は2万7532軒、そのうち東京府には8619軒、大阪府には3611軒が集まっていた(『警察統計報告』)。

写真はイメージ ©︎makoto.h/イメージマート

 こうした享楽的なアルコール施設が、給料生活者たちの解放区としてイメージされていたのもたしかである。夜の酒場の脱労働的な雰囲気や機能を語るのは、昭和初期の社会批評において、頻繁に見うけられたものだった。2つ例を引いてみよう。

 重役の眼鏡の光を恐れ、与えられた仕事の量に追い立てられ、まるで坂道を登りつめた馬車馬のように、フウフウあえぎながら仕事をしていた昼間と較べて、このカフェー気分の何という暢んびりとした落ち付きさであるだろう。(前田一『続サラリーマン物語』1928年)

 

 会社や工場や事務所で働くことの多くなった現代の社会生活者が、機械的な一日の勤労を了えて、解放された後の気分転換の一方法として、カフェーの職能を認めなければならぬ〔。〕(帆足理一郎「現代の社会相を視る」1929年)