朝日新聞が2009年に行った調査では、35%の人が酒の失敗として「記憶をなくす」ことを挙げているように、「飲みすぎに伴う記憶の部分的欠落(ブラックアウト)」は、アルコールにまつわる代表的な失敗ミスの1つである。

 しかし、社会学者である右田裕規氏は、記憶喪失そのものが飲み手たちの不安を喚起しているわけではないと指摘する。いったいどういうことか。同氏の著書『「酔っぱらい」たちの日本近代 酒とアルコールの社会史』(角川新書)の一部を抜粋し、紹介する。

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「しらふ」を装う帰宅者たち

 近代的な職業倫理と結びついた、酔わない身体へのあこがれは、アルコールに負けて理性を失うことへの恥じらいと、表裏一体となっていた。

 ここにおいて、街中の余暇飲酒者たちは、自身が「酒狂」におちいっていることを、懸命に隠蔽しはじめる。近世の飲み手たちが、しばしば醒めた状態で「酒狂」を演じたのと対照的に、近代の飲酒者たちは、どれだけ酩酊していても、「しらふ」を懸命に演じようとするのである。

写真はイメージ ©︎mapo/イメージマート

 たとえば深夜の駅につどう泥酔者たちの間では、構内や車内で無秩序に暴れる者が多かった一方、つとめて理性的にふるまおうとする者も多かった。

 1940年、『読売新聞』の元記者で作家の上司小剣は、次のようにかれらの理性的演技について述べている。自分が観察した限りでは、「午後十時以後の省線電車」に集まる「酔漢の多数」は「サラリーマンらしい連中」である。かれらは「酔漢」でありながら、「決して降車の駅を忘れず、〔降車駅に着くと〕酔歩蹣跚もどこへやら、しっかりした足取りで帰って行く」(上司小剣『清貧に生きる』)。

 井伏鱒二「泥酔記」(1931年)も同様に、醒めた様子を装うことを、深夜の電車内の酔っぱらいの大きな特徴として描いている。当時の井伏自身、深夜の新宿駅に集う常連の酔っぱらいの一人であったから、かれもおそらく、そのような演技をした経験があったのだろう。

 夜中の十二時以後の立川行きの電車や三鷹行きの電車には、必ず酔っぱらいの客と女給とが乗っている。一般に、この電車のことを「女給電車」と言っているようである。〔略〕「女給電車」に乗っている酔っぱらいのお客たちは、たいていの場合、彼等が酒場にはいって行って軈(やが)て冗談を言いはじめる前にしばらく気取っているときと同じく、この電車の乗客たちはとりすましている。(井伏鱒二「泥酔記」)