なぜ「酔ってない」と言うのか

 近代的な職業倫理と結びついた、酔わない身体へのあこがれは、アルコールに負けて理性を失うことへの恥じらいと、表裏一体となっていた。この恥の意識が分かりやすく表出したのは、たとえば酒宴の同席者たちに酔いを見抜かれたときだった。

「酒に酔った人は、多く酔って居ないと云う」(正親含英『業道自然』)、「酔って居ない酔って居ないと云う人に限って酔って居る」(松原寛『流転風景』)というように、同席者に酔いを指摘された際、言下にこれを否定することは、戦前から酩酊者の代表的な徴候と見なされていた。今日の酔っぱらいにも見られるこの条件反射はあきらかに、自身が「酒狂」の状態に陥っていること――近代的職業人として不適格な心身状態に陥っていること――を見透かされたという、恥の意識に基礎づけられたものだった。

写真はイメージ ©︎Tomoharu_photography/イメージマート

 20世紀の飲酒者たちにとって、街中でおおっぴらに酔うことをさらにためらわせたのは、公共空間から「狂気」を一掃し、理性で満ちた世界を実現しようとする、文明論的志向のひろがりであった。川端康成は、1932年発表の短編小説「喧嘩」において、次のように登場人物の女性に語らせている。

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「東京には、酔っぱらいが一人もいないって、田舎にいた時よく聞かされましたわ。酔っぱらいには街を歩かせないって、歩いていると、直ぐ巡査が連れて行ってしまうって。それだけでも、東京はどんなにいいところでしょうと、子供の時から思っていたんですけれど、ところが来てみると、酔っぱらいはやっぱり──。」と、彼女は楽しそうに笑い出した。

 酔っぱらいの警察的排除をつうじた、理性的な公共空間の達成――女性が語っているこの種の文明論的願望を、20世紀の多くの市民たちが共有していたことは、戦後の世論調査群が具体的に示している。

 1959年、警察に対する市民の要望をテーマとした世論調査(全国の20歳以上の男女2568人が回答)では、「他人に迷惑をかけるようなよっぱらいは、警察がいまよりもっと積極的に保護取締りをした方がよい」と考える回答者が、76%にのぼっていた(『警察官の教養等に関する世論調査』)。

 さらに20世紀後半には、警察による泥酔者の「保護」(つまり街区からの排除)は、完全に市民主導で行われるところとなる。往来や店内の酔っぱらいの排除を要請する民間人の110番通報にしたがって、外勤警察が現場に向かい、当の酔っぱらいをパトカーで警察署内の「保護室」へと連れていく、という形である。

 たとえば「昭和48年中に警視庁が保護した3万3774人について、酔っぱらい保護の実態を調査した結果についてみると、酔っぱらい保護の端緒は、市民からの通報によるものが最も多く総数の66・6%を占め」ていたと、1974年度の『警察白書』は書いている。それほど、公共秩序を攪乱する「酒狂」への東京都民の嫌悪は、戦後社会において高まっていた。

次の記事に続く 飲みすぎで「記憶をなくす」ことが酒による“失敗の本質”ではない“納得の理由”