大正時代、今でいう芸能人のように注目された芸者たちがいた。ノンフィクション作家の平山亜佐子さんは「ブロマイド写真が多数残る照葉は、16歳のとき、左手の小指を詰めるという行動に出て、世間を揺るがすスキャンダルになった」という――。

※本稿は、平山亜佐子『戦前 エキセントリックウーマン列伝』(左右社)の一部を再編集したものです。

大正の芸者ブームでも異彩を放った「照葉」

日露戦争後から大正にかけて芸者が持て囃(はや)された時代がある。「酒は正宗(まさむね)、芸者は萬龍(まんりゅう)」と謳われた萬龍、絵葉書に仕立てた洋装姿のブロマイドが飛ぶように売れた八千代、三越のポスターが有名な栄龍、森鴎外の小説『百物語』のモデルにもなったぽん太など、東西の美妓たちが雑誌のグラビア、美人コンテスト、夜の料亭で華を競った。どんなに人気があってもいつかは上がる(引退する)のが芸者の運命。運が良ければ華族の妻に収まるが、行方のわからなくなった者も多い。そんな一世を風靡した芸者のなかでもとくに波瀾万丈だったのが照葉(てるは)である。

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照葉の本名は高岡たつ、1896(明治29)年4月22日、大阪南区上本町の鍛冶職人のもとに生まれた。母は2歳のときに亡くなり、父は飲んだくれというわけで7歳で叔母に預けられた。叔母の稼業は弁当の仕出し屋で、花見の時期には奈良の興福寺に掛け茶屋を出す。1年で一番の稼ぎ時であるため、たつも学校を休んで手伝った。小さなたつは茶屋でも人気者だった。

この頃、叔母の趣味で舞を習っていたが、ある日突然やってきた父が舞の師匠に相談し、本人の知らぬ間に舞妓にさせる話をまとめてしまった。このとき連れて行かれたのが、後々までたつが常どんと呼んで頼りにした富田屋(貸座敷)の男衆(芸者の世話人)、橋本常次郎である。

たつは5代目尾上菊五郎の愛妾で大阪の宗右衛門町でお茶屋をしている辻井お梅という女性のところに見習いにいくが、易で見てもらったら相性が悪いと一方的に言われ、貸座敷兼置屋の加賀屋の養女となった。このとき養育料の名目で父に払われたたつの値段は250円だったという。