当時、島根県警察は「警安号」という小さな船を持ち宍道湖や河川の警備を行っていた。この船は当時では珍しい蒸気船で県内でもとにかく目立っていた。そして、制度も曖昧な当時、警備だけでなく知事の移動のためにも用いられることがあった。それだけならいいのだが、ついには淑子までもが私用に用いるようになり、これが議会で大問題になったのだ。

“書記官の陳謝”に、淑子が激怒

当時の「山陰新聞」によれば、これが問題となったのは1889年11月の島根県会でのこと。右田三吉という議員が、この夏、警安号に女性の姿があったので、どうしたことかと調べたところ、淑子がお付きのものを従えて海水浴にいくために乗船したことが明らかになったと県知事を問いただしたのである。

知事に代わって答弁した書記官は、巡視中にたまたま淑子が自分は松江婦人会の会長であるとして乗船させるように迫ったこと。幾度か断ったものの、ほかに空いている船がないというので乗せざるを得なかったが、今後はこういう不心得のないように注意すると陳謝したのである。

ADVERTISEMENT

これで議会は納得して終わりと思いきや、そうはならなかった。この議会での話を聞いた淑子が激怒したのである。『山陰新聞』の記事では「私は二度も断ったのに、警察のほうが問題無いから乗ってくれというから乗ったのだ」と淑子の主張を伝聞で伝えている。淑子は、自分が悪者にされたことを相当怒っていたようで、記事中ではこう記されている。

馬鹿にするにも程こそあれ、妾が婦人なればとてこのままに捨て置いては父上に対しても一家の不名誉、県会議場に起ちて言い解かんとせき立ちし由にて、一時は容易ならざる騒ぎなりしも、番外(注:議会で番外=予定外で陳謝した書記官のこと)及警察部長の仲裁兼詫などにて、まずは事済みなりしという。

警察部長までもが平謝り

淑子の名誉のために述べておくと、船を利用した日に淑子は海開きの挨拶をしているので、完全に私用であったかどうかは判然としない。しかし、そんな事実関係よりも驚くべきは、この激怒ぶりである。