響子 そんなに深く考えてないよ。人って何かを言う時、「相手が傷つくかな」と一瞬、思うでしょ。それが全くないだけ。母の担当だった編集者と話したら「先生に泣かされました」と言っていて、私だけじゃないのか、と。今はいないと思うけど、昔は編集者を泣かす作家がいた。いたって、自分の親ですけど(笑)。一時期はファンの方が家政婦さんや秘書として働いてくれていて、母は「ハタラキド」と呼んでいましたが、その人たちもだんだん母の本性を見抜いていく(笑)。

佐藤愛子さん

桃子 傷ついてお辞めになった方がたくさんいて。

響子 「そんなことで傷つく方が悪い」って言うんです。

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桃子 その言い方、おばあちゃん、すごくよくしてたね。

響子 私は母が理不尽なことを言ってくると「そんな無茶な」って笑って流してました。そうすると、母はワハハって嬉しそうなんですよ。自分の変人ぶりを気に入ってますから、それを突きつけられると上機嫌で笑うんです。

桃子 母は長い時間かけて、「佐藤愛子対策」みたいなものを培ったんですよ。こうすれば笑いに昇華できる、みたいな。

締め切りが過ぎると、母が言い訳の台本を書いて、私が電話する

 響子さんは53歳の時、90歳を迎える愛子さんへの手紙をエッセーに書いている(「文藝春秋」13年7月号)。15歳の時に響子さんが出演したNHKの番組、そこで読んだ母への手紙、2人の楽しいやりとり。それらを引き、こう綴る。〈もしかしたら私たちはふざけたり、笑ったりすることで乗り越える力を身につけていくというヘンテコな血筋の一族なのかもしれません〉

響子 確かに笑いというものが、私と母にはありました。母も昔は原稿を書き終えると「終わったー」ってほがらかになったんです。それがだんだん常にピリピリするようになった。あれは書けなくなっていく前兆だったと思いますね。

書斎で机に向かう佐藤さん。60代の頃。

桃子 いつ頃から?

響子 『晩鐘』(14年刊)の前あたりかな。母は『血脈』(01年刊)でエネルギーを出し尽くしたと思うんです。『晩鐘』の時は私に原稿をチェックしてくれと言ってきて。以前はありえないことだった。

桃子 祖母が『晩鐘』を「最後の小説」と言った時、作家・佐藤愛子は死ぬんだなと思ったんですよね。