簡単に言えば、スポーツを通して大学の知名度を上げていこう、という戦略だ。そして1985年、理事長を務めていた古屋忠彦が箱根駅伝への挑戦を掲げ、陸上部も強化育成クラブに指定されて、本格強化が始まったのである。
監督に就任した上田は、順天堂大学で箱根駅伝の山登り5区を3度走り、うち2度の区間賞を獲得した名選手でもあった。順天堂大学の優勝に貢献した有名なランナーではあったが、当時はまだ26歳の青年である。地元の香川県で中学教員として働いており、指導者としての経験は浅かった。
それでも上田に白羽の矢が立ったのには、人脈が大きく作用していた。理事長の古屋が箱根駅伝への挑戦に際して相談したのが、長距離における高地合宿地として有名な長野県の車山高原でホテルを経営していた秋山勉。山梨学院の所在地である甲府市の出身で、この人物もまた東京農業大学で箱根駅伝を4年連続で走った元ランナーである。
いくら箱根駅伝への挑戦を望むといっても、本戦に出場するためには予選会を突破しなければならない。そのためには選手が必要で、さらに言えば、それを指導できる監督がいなければ始まらない。古屋は秋山の人脈に頼り、相談は順天堂大学の監督をしていた澤木啓祐にまで繋がった。
その澤木が推薦したのが、自身の教え子であり、箱根駅伝の山登りで活躍してチームを優勝に導いた上田だった。
「お前、行け!」「山梨って関東ですか?」唐突かつ、強引な打診
上田にとって、この話は青天の霹靂だったという。
「秋山さんから澤木先生のところへ話がいって、話が来たのが私でした。当時、香川県で中学校の教員をしている身で、まさか自分に監督の話が来るなんて思ってもいませんでした」
監督に就任する2年前の11月、上田は福島県の郡山で30キロのレースに出場していた。レースが終わり、テレビ中継の解説を担当していた澤木から上田は呼び止められた。
「話があるから、収録が終わるまでちょっと待っていろ」
その日のうちに香川に帰る予定だったが、恩師に待てと言われたら断るわけにはいかない。ビールを飲みに居酒屋に行くことになり、いつもの口調で「食え」と言われる。しばらくして、澤木からこう切り出された。
「山梨に山梨学院という大学がある」
「はあ、そうですか」
「その学校が、箱根駅伝に出るためにチームを作りたいと言っている」
「なるほど」
「お前、行け!」
唐突かつ、強引である。当然、上田は戸惑った。そもそも「山梨学院という大学」と言われたところで、聞いたことがない。
「山梨って関東ですか?」
そんな質問をしてしまうほど、未知の世界だった。地元の陸上関係者に相談すると、反応は冷ややかだった。



