毎年のように、箱根駅伝のエース区間「花の2区」の区間記録を更新するケニア人留学生。正月のテレビ画面越しに、彼らの活躍を見続けてきた私たちだが、彼らがケニアではどういう暮らしをしていて、どうやって日本に来て、そして卒業後に何をしているのかについては知らないことばかりだ。
ここでは、そんなケニア人留学生の謎を追ってアフリカの大地を訪ね歩いたノンフィクションライター・泉秀一氏の著書『アフリカから来たランナーたち 箱根駅伝のケニア人留学生』(文春新書)より一部を抜粋。駅伝の名門校・山梨学院大学の元監督、上田誠仁氏が、箱根駅伝で初めてケニア人留学生を起用した経緯を紹介する。(全2回の2回目/1回目から続く)
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ケニア人留学生の大学入学を聞いた日本人選手が猛反発…チームは瓦解寸前に
上田ら山梨学院のケニア視察の話は、第2章でも記した通りだ。ケニア大使館を通してオマシイレという名のコーチを紹介してもらい、彼のチームからオツオリとケネディ・イセナの2人を紹介されている。2人は1987年に付属高校に転入し、翌1988年に大学に入学した。上田は当時をこう回顧する。
「ケニア人留学生は、あくまでも起爆剤として考えていました。彼らの力に頼って勝とうというものではありません。練習熱心な強いランナーの存在によって、他の日本人選手の底上げをするという、核融合のようなことが起こらないかと思ってのことでした。そのため、重視するのはタイムよりも性格。紹介してくれたオマシイレコーチにも、そこを強く伝えました」
しかし、ケニア人留学生が大学に入学することが決まると、日本人選手たちは強く反応した。そもそも、オツオリらが大学に入学する前の1987年大会で、日本人だけで箱根駅伝の予選会を通過し、本戦に出場している。
日本人メンバーが、自分たちだけでもやれるという自信を持ち始めていたタイミングだった。彼らからすれば、ケニア人ランナーの受け入れは、自分たちが信頼されていないことの裏返しであるようにも思えたのだろう。
「あれは、ケニアの選手たちが入学すると伝えた時です。日本人選手たちから猛反発を喰らってね。『ええ! なんでケニアの選手がうちの大学に来るんですか。監督は僕たちのことを信用できないんですか!』って。私が『ケニアの選手たちが来たら、面白くなるじゃないか』と伝えても、受け入れることができなかった。もちろん、彼らの気持ちもわかります」
混乱は一時的なものではなく、簡単には収まらなかった。上田の指示に対してあからさまに反発する態度をとる選手も出始め、練習もままならなかった。チームは瓦解寸前にまで陥ったという。



