山梨学院には批判の声が殺到…監督を救ったオツオリとイセナの言葉
しかし、「ケニア人が走った」という事実は、見る者の視覚と感情を強烈に刺激した。優勝の裏側に「ケニア人選手だけではなく日本人選手の奮闘もあった」というもう1つの事実は、ほとんど無かったこととして扱われた。大会後、山梨学院には批判の声が殺到したという。
「祝福の声もたくさんいただきました。でも中には、『箱根駅伝でクロンボを使うな』というような、明らかな差別用語を使って批判してくる人もいました。外人ではなく『害人』と書いたりしてね。悔しかったし、悲しかったですね」
しかし、オツオリとイセナの言葉に救われた。
「その渦中に、彼らは僕にこう言ったんですね。『監督、自分たちは大丈夫です。オレンジをくれる近所の八百屋さんや、お風呂で一緒に背中を流したりするおじさんたちのような、いつも応援してくれる人たちが喜んでくれる。僕たちはそれだけで嬉しいんです。だから、上田監督が悲しんでいるとしたら、そっちの方が寂しい』って。本当にたくましかったですね」
日本で若手選手を育てるも夭逝…オツオリを偲び鎮魂モニュメントを建設
オツオリはその後、トヨタ自動車に所属するも、目立った成績を残せずに帰国。2003年に再来日し、新潟県の重川材木店に入社して大工として働きながら、陸上部の選手兼コーチとして若手選手を育てた。2006年には重川材木店をニューイヤー駅伝初出場に導いている。しかし同年、一時帰国中のケニアで交通事故に遭い、37歳の若さでこの世を去った。
甲府市郊外にある山梨学院の「川田『未来の森』運動公園」の陸上競技場には、オツオリを顕彰するメモリアルモニュメントが設置されている。石に嵌め込まれたプレートには以下の文章が刻まれている。
ジョセフ M. オツオリ
〈ケニア共和国出身 1969年~2006年〉
山梨学院大学陸上競技部 草創期の功労者。
在学中 留学生ランナーとして箱根駅伝をはじめ、全日本大学駅伝、出雲駅伝等 数多くの大会で活躍し、1992年の箱根駅伝において初優勝の原動力となる。
2006年 夏、母国で交通事故により逝去。
ここに、ありし日のオツオリ選手の勇姿を偲び、鎮魂のモニュメントを建設して、末永く陸上部の護り神とする。
2006年 秋
この文言からも、オツオリが単なる助っ人ランナーではなく、1人の仲間として、それも模範的な存在として扱われてきたことがわかる。しかし、山梨学院の初優勝後も、そうしたチーム内の事情は、世の中には伝わらなかった。ケニア人留学生とチームへの批判はやむばかりか、留学生受け入れの流れが高校に広がるにつれて、増幅していくのである。
その他の写真はこちらよりぜひご覧ください。



