毎年のように、箱根駅伝のエース区間「花の2区」の区間記録を更新するケニア人留学生。正月のテレビ画面越しに、彼らの活躍を見続けてきた私たちだが、彼らがケニアではどういう暮らしをしていて、どうやって日本に来て、そして卒業後に何をしているのかについては知らないことばかりだ。

 ここでは、そんなケニア人留学生の謎を追ってアフリカの大地を訪ね歩いたノンフィクションライター・泉秀一氏の著書『アフリカから来たランナーたち 箱根駅伝のケニア人留学生』(文春新書)より一部を抜粋。駅伝の名門校・山梨学院大学の元監督、上田誠仁氏が、箱根駅伝で初めてケニア人留学生を起用した経緯を紹介する。(全2回の1回目/2回目に続く

山梨学院大学の元監督、上田誠仁氏 ©文藝春秋

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予選会では約4割が外国人ランナーを起用…その源流は

 今では大学駅伝でもケニア人ランナーが走ることは珍しくなくなり、2025年の箱根駅伝では、出場した全20チームのうち6チームがケニア人ランナーを起用した。比率にすると3割だが、分母を予選会に出場する「本戦に出られるかどうか微妙なライン」の大学にまで広げるとさらに増える。

 同大会の予選会では、出場43大学中15の大学、比率にして約4割が外国人ランナーを起用していた。かつては物珍しい存在だったケニア人ランナーも、今では箱根駅伝の風景として完全に溶け込んでいる。しかし、最初から今のように受け入れられていたわけではなかった。学内外から激しい批判が寄せられ、上田自身も深く悩むことになった。

 その源流は、1989年に鮮烈なデビューを飾った1人のランナーだった。今から36年前にさかのぼる。

 ジョセフ・オツオリ。ケニアから来日した山梨学院大学の留学生にして、初めて箱根駅伝を走った外国人ランナーである。オツオリは各大学のエースが集う2区でいきなり区間賞を獲得した。ここから現在につながる箱根駅伝とケニア人ランナーの物語が始まった。

 しかし、この出来事の裏側には、日本人選手たちとケニア人留学生との間で揺れる上田の葛藤があった。

山梨学院大・オツオリ(右) ©時事通信社

箱根駅伝の山登りで活躍…優勝に導いた上田に白羽の矢

 今でこそ駅伝の名門校として知られる山梨学院大学だが、1920年に始まった箱根駅伝の伝統の中では後発組と言える存在で、初めて箱根駅伝に出場したのは1987年のことだった。

 1970年代から大学と付属高校が一体となってスポーツ強化に取り組み、1977年には「スポーツセンター」を設立。レスリング部とスケート部を強化育成クラブに指定してスタートし、本格的にスポーツ振興に乗り出していた。