「お前の顔には『行く』と書いてあるじゃないか」父親の一言で決断
「ほとんどの知人から、『やめておけ』と言われました。箱根駅伝に新興大学が出られるわけがないと。当時は、早稲田や中央といった名門私学、順天堂、日本体育大といった体育系の強豪校が存在感を誇っていて、新たに無名校が割って入る余地があるとは思えませんでした」
上田は迷った。父子家庭で育ち、病気を患っている父親のことも気になった。長男として、地元を離れることへの躊躇もあった。それでも、父親の一言が決断を促した。
「返事をしなければいけない頃に、おやじが『お前、どうするんだ』と急に聞いてきたんです。『迷っている』と答えたら、『お前の顔には「行く」と書いてあるじゃないか』と。『俺のことを心配するよりも、やってみたらどうなんだ』と言われて決断できました」
厳しいながら当初の目標は達成…起爆剤を求め向かった先は
こうして上田は山梨学院大学の監督に就任するが、そこで待っていたのは想像以上に厳しい現実だった。ある程度は覚悟していたものの、関東の名門大学に比べて圧倒的に知名度が低く、日本人の有力選手をほとんど獲得できなかった。早稲田、中央といった名門私学には全国の有力高校生ランナーが集まるが、山梨の無名校に来る選手のレベルには限界があった。
それでも、当初の目標は達成した。4年以内に箱根駅伝出場が目標だったが、2年前倒しの1987年大会で、日本人メンバーで予選会突破を果たした。翌年も出場を果たすが、シード権が与えられる9位以内には食い込めなかった。
なんとかして箱根常連校を目指したい。本戦で上位に食い込み、いつか名門校と呼ばれるようになりたい。そのためには、どうすれば良いだろうか……。
そんな時、上田の頭に浮かんだのが、ちょうど注目され始めたイカンガーやワキウリなどの東アフリカ出身のランナーたちだった。特にエスビー食品に所属していたワキウリは、監督の中村清やエースの瀬古利彦とともに、秋山が経営する車山高原のホテルに合宿で滞在していた身近な存在だった。
もちろん実業団と教育機関である大学では事情が全く異なることはわかっている。学生として受け入れるには、4年間の学業を全うさせなければならない。それでも、箱根駅伝の常連校になるためには、起爆剤が必要だった。
上田は、可能性を探るためにケニアに渡った。
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