「それからまるっきりかみ合わなくなって、私が全員に一度、退部届を出させたんです。そんなに嫌なら、退部届を書いて持ってきなさいと。退部届を持参させて、一人ひとりと面談をしました。そして、やっぱり自分は走りたいという者は、新たな気持ちで一緒に取り組もうと。今では大学全体でケニア人ランナーも増えていますが、やっぱり最初ですから。それくらい大きなハレーションを生むほど衝撃的だったということです」
チームを初の総合優勝に導いたケニア人留学生の練習姿勢
それでもチームがまとまったのは、ケニア人の2人の練習姿勢が大きかった。とにかく真面目で、朝一番に起きてトレーニングをする。そうした態度が他の日本人選手にも波及し、チームは好循環に入っていった。ケニア人留学生が、走力だけではなく姿勢で影響を与えることは、まさに上田が目指した融合である。
そうしてチーム力全体が底上げされ、山梨学院は駅伝強化を始めてからわずか7年の1992年に初の総合優勝を果たすことになる。オツオリとイセナは最終学年の4年生でそれぞれ2区と3区を担い、区間2位(オツオリ)と区間賞(イセナ)の活躍を見せた。大学駅伝に本格参入してからわずか7年での総合優勝は、今ではほとんど考えられないほどの偉業である。
というのも、上田が頭を悩ませていたように、新興大学では力のある日本人選手を集めにくく、1人か2人のエースを育てることはできても、全10区間もある長距離レースにおいては、選手層の厚さが問われるからだ。強いランナーを10人集めなければ、箱根駅伝は勝てない。そして、新興大学がわずか数年でその戦力を整えることは、ほとんど現実的ではない。
山梨学院が優勝できたのは、まさにケニア人と日本人の融合にあった。ケニア人ランナーの力に引っ張り上げられ、入学時点では並の実力のランナーが力をつけて駅伝で健闘したのだ。実際、オツオリとイセナを除く8人の日本人選手全員が区間順位一桁で走り抜き、うち2人は区間賞を獲得している。



