ずぶ濡れの姿で愛人に復縁を迫る
それにひきかえ、『祇園囃子』(一九五三)の若尾文子は、二十歳とは思えないほど幼い。花街半玉という役柄のせいもあるだろうが、印象はチェリーやラズベリーだ。タンニンはもとより、芳醇さもあまり出ていない。監督の溝口健二も、このときはまだ彼女を放し飼いにしていたらしい。ところが三年後、当の溝口が本領を発揮する。『赤線地帯』(一九五六)できびしく鞭打たれたせいか、若尾はようやく熟成の兆しを見せはじめる。
けれども、ギアが完全に切り替わったわけではない。小津安二郎や市川崑や吉村公三郎らと出会っても、あどけなさや野暮ったさは、アクのように残りつづける。常識中の常識とはいえ、ここではやはり、増村保造と川島雄三の名を挙げたい。若尾を変えたのはこのふたりだ。
増村保造と若尾が組んだ映画は二十本を超えるが、『妻は告白する』はその第二作にあたる。ご承知のとおり、この映画の最大のヤマ場は、黒い着物に身を包んだ若尾がずぶ濡れの姿で若い愛人(川口浩)の会社を訪れ、復縁を迫るシーンだ。泥まみれの白足袋も気にかけず、若尾は「一年に一度でいい。ね、お願い。ね、ね、二年に一度でも、三年に一度でも」と川口に哀願する。くぐもった声と苦しげな呼吸。顎から首筋にかけての美しい線。そこにまとわりつく濡れ髪。思い詰めたように据わった眼。
恋着と絶望が交互に噴出し、やがて前者が後者に敗北していくプロセスを、若尾は艶めかしさと凄みを共存させて演じ切る。艶めかしいのは、肌がしっとりと湿りを帯び、柔らかそうな身体が曲線的に動き、声がとりもちのように糸を引くからだ。凄みを感じさせるのは、絶望と虚無の淵に追い込まれても、めそめそしたり、怨みがましい態度を見せたりしないからだ。

