当時の広島の“日常”
その後、高校に進学した庭田氏は、後に共著者となる渡邉英徳氏のワークショップに参加し、白黒写真をAIでカラー化する技術と出会う。
「あ、こういう技術があるんだ、これはすごいな、と。白黒写真にちょっと色がつくだけで、当時を生きる人たちの話し声が聞こえてくるといいますか、体温が伝わってくるような印象を覚えたんです」
無機質な白黒写真に色が宿るだけで、かつてそこを生きた人々の息遣いが聞こえてくる。この技術に可能性を感じた彼女は、具体的な行動を開始する。
きっかけは、平和記念公園での核兵器禁止条約に関する署名活動中に出会った、濵井德三氏との対話だった。2023年7月19日に88歳でお亡くなりになった濵井氏は、かつて中島地区で理髪館を営む家に生まれ育った。原爆投下時、彼自身は疎開していたため難を逃れたが、家族全員を失っていた。
「この公園に来たら、いつも家族がどこかから見てくれとるんじゃないかと思えてね」
そう語り、足繁く公園に通った濵井氏。彼は、映画『この世界の片隅に』の冒頭シーンに自身の家族が登場することから、画面の中で生きている家族に会うために、何十回も映画館に足を運んでいたという。そして、庭田氏にこう告げた。
「8月6日のことは話せんけど、被爆前の中島地区のことだったら、どれだけでも話せるよ」
そう言ってくれた濵井氏との関係は、継続的な対話へと発展していく。庭田氏は、濵井氏が大切に持っていた白黒写真をカラー化し、アルバムにして贈ることを思いつく。大好きだった家族を、より身近に感じてほしいという願いからだった。これが「記憶の解凍」プロジェクトの始まりである。
カラー化された写真を見た濵井氏は、「家族がまだ生きとるようだ」と心から喜んだという。さらに、桜の名所だった長寿園での花見写真を見ながら対話を重ねる中で、ある記憶がふとよみがえった。
「そういえば、杉鉄砲でよく遊んだなあ……」
白黒写真を見返していたときには思い出されなかった些細な、しかし温かな記憶。色は、凍りついていた記憶を解凍し、当時の鮮やかな情景や感情を呼び覚ます力を持っていたのだ。
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当時の広島には、現代の私たちと何ら変わらない、鮮やかな日常があった。庭田氏が「記憶の解凍」によって取り戻したのは、記録としての過去ではなく、確かな体温を持った人々の営みだ。記事内で紹介しきれなかった数々の写真はこちら。ぜひ、その景色を覗いてみてほしい。80年前のあの日まで続いていた笑顔や景色は、決して遠い昔話ではないと感じられるはずだ。
また、庭田氏は、自身の取り組みをドキュメンタリーとアニメーションで表現した、映画『記憶の解凍』を監督。同作は「広島国際映画祭2025」のオープニング作品に選出され、12月19~25日には八丁座で1週間限定の広島先行公開が行われた。来年夏の上映も決まっているという。戦争の記憶を次世代へ継承する試みがたしかに広がりを見せている。





