それまでの上映作品を見直し、当時の韓流ブームに乗じて韓国映画や、家族で楽しめるアニメ作品を積極的に上映した。さらに当時はまだ一般的ではなかったメールマガジンの配信も開始。地域での認知を広げるため、毎週100カ所以上にポスターを配り回るなど、地道な宣伝活動も続けた。そうして広報活動を続けるうちに、少しずつ町の人たちにも変化が見え始めた。
「閑古鳥の鳴き声すら聞こえない」
「『西脇(大劇)さん、次は何の映画をやるの?』と声をかけてくれる人が増えてきたんです。気がつけば、これまであまり来ていなかった主婦層や子連れのご家族も足を運んでくれるようになって、最終的にはお客さんが水害前よりも4割ほど増えました。
西脇大劇は2007年に閉館しましたが、最後の『さよなら上映』のときは、朝から晩までずっと客席が埋まっていて、テレビの取材も来てくれました。町の人の記憶にはちゃんと残っていたんだな、と。頑張ってよかったと思えた出来事でした」
こうして西灘・西脇の映画館は相次いで閉館し、戸村さんは2008年ごろにサンサン劇場へと着任する。
だが、そこで待っていたのは想像以上に厳しい現実だった。
「閑古鳥の鳴き声すら聞こえない」。戸村さんは自身の著書の中で、当時のサンサン劇場の様子をそう表現している。商圏内には大型シネコンが3館あり、電車で15分も乗れば大阪・梅田や神戸・三宮といった大都市にも行ける。そんな状況の中で、町の映画館はなすすべもない状態だった。
「当時はアルバイトさんに途中で帰ってもらったり、勤務を減らしてもらったり、本当にどん底でした。お客さんが誰ひとり来ず、観客ゼロで上映する『空回し』も結構ありました」
観客はピーク時の4分の1にまで減少し、社内では連日のように「いつ閉館するのか」という話が上がる。コスト削減のために人員整理も進み、残ったスタッフだけでこの状況をどう乗り切るのかが問われる事態となった。サンサン劇場は、まさに窮地に立たされていたのだ。