ワープロと鉛のエプロン

臼井:光子さんと初めてお会いしたのは、私が新卒で文藝春秋に入社した1992年、「週刊文春」の編集部でしたね。

田中:そうでした。私は1988年、昭和最後の年に入社して、臼井さんが入られた頃は「週刊文春」にいました。

臼井:その時、光子さんはお腹が大きくて。当時、パソコンから出る電磁波がお腹の子に悪いという噂があって、鉛のエプロンのようなものをつけてお仕事されていた姿をよく覚えています。

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田中:そう、まだパソコンじゃなくて、富士通のOASYS 100というワープロで、デスクトップパソコンぐらい大きかった。私は会社に入ってからワープロを覚えたんです。入社2年目に、月刊「文藝春秋」の編集長から「君、松本清張先生の担当をしてくれないか」と突然言われて。

臼井:すごい。

田中:清張先生の手書きの原稿を何度も細切れに入稿していたので、印刷所から「ワープロで完全原稿にしてからまとめて入稿してくれ」と叱られてしまったんです。それで必死にワープロを覚えました。

臼井:そうだったんですね。

田中:ある時、先生から「こんなにしょっちゅう直して大丈夫かね?」と聞かれたので、「先生、大丈夫です。ワープロという機械は原稿を覚えているようなものなので」と答えたら、「何? 機械が文章を覚えるのかね? それはどういう仕組みか説明しなさい」と問い詰められて、困りました(笑)。

対談時の松本清張(右は東久邇稔彦)

臼井:私が入社した1992年は、「週刊文春」で清張先生の『神々の乱心』がまだ連載中でしたが、その年の5月に休載になり、8月にお亡くなりになりました。なので、私は一度もお会いすることができなかったんです。

田中:そうでしたね。私はその頃、産休が近かったこともあり、藤井さんが「お見舞いは控えた方がいいのでは」と配慮してくださったので、先生が倒れてからはお会いしていません。ただ、一度だけ、病院からお電話をいただきました。「先生、ご体調は……」とか言う隙もなく「あんたね、これこれのことについて、調べておいてくれんかね」とおっしゃって、短い電話は切れてしまった。具体的なことは忘れてしまいましたが、それが清張先生とお話しした最後なんです。

1968年、清張先生はこれだけの仕事をしていた

田中:この対談が連載されていた1968年(昭和43年)は清張先生にとってどんな年だったのか、全集の年譜で調べてみたんです。これが本当に驚くべき仕事量で。

臼井:ぜひ聞きたいです。

田中:まず「週刊文春」では足かけ8年にわたる大連載『昭和史発掘』が、クライマックスの「二・二六事件」に。さらに月刊誌では「宝石」に『Dの複合』、「現代」に『風紋』(当時のタイトルは『流れの結像』)を連載。週刊誌も「週刊朝日」で『黒の様式』、「週刊読売」で『ミステリーの系譜』という二つのシリーズを同時進行しています。

臼井:うわあ……。

田中:それだけではありません。「オール讀物」ではエッセイ『私のくずかご』、地方新聞で長編『混声の森』、読売新聞の夕刊ではコラム『東風西風』まで連載している。こんなに大変な年に、さらに月刊「文藝春秋」で毎月この対談をやっていたわけです。

臼井:信じられない仕事量ですね。しかも、この年に入院(十二指腸潰瘍による穿孔性腹膜炎の手術)もされていますよね。

田中:そうなんです。40日間も入院されているのに、対談のお休みは1回だけ。

臼井:ただでは起きないというか、入院先の東京女子医科大学の中山恒明先生と対談してしまうところが、まさに清張先生らしいですよね。対談相手とのスケジュール調整だけでも大変だったでしょうに……。

豪華なゲスト陣

田中: 先生ご自身の興味が、この対談企画に強く反映されていたのだと思います。『昭和史発掘』を執筆されていた時期でもあり、「この国はなぜ戦争へと向かったのか」という問題意識が非常に高まっていたはずです。だからこそ、明治から昭和を生きてきた方々の話を直接聞きたいという強い思いが、この豪華なゲストのラインナップにつながったのではないでしょうか。