フジテレビに追い出され…「地獄のコミケ」時代

 1981年になると、参加者1万人を越えるコミケを開催できる箱がなくなり、当時は日本一広い晴海の東京国際見本市会場に新天地を求めた。

 驚くべきはこれまでの会場は、すべて個人名義で借りていた点。コミケの開催団体は有志の集いであり、現在も企業が運営しているわけでない。しかし規模が大きくなりすぎて、会場だけでなく警察や交通機関などの関連各所と連携する必要があり、会場費も数百万~1千万規模まで膨らんだため、サークル管理の事務費や運営費も膨大になるため、税金や契約の面で歪みが生じ始めた。

 簡単にいうと個人でアリーナや野球場を借りて人気アイドルイベントを行なうようなものである。ほかにも会場や関連各所からは、「たかが個人主催」と甘く見られていた感もある。とはいえ企業運営並みのイベント以上に人が集まるため、特例としてコミケに場所を提供していたという点もあるだろう。

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 その暗黙の特例が破綻したのはバブル経済真っ只中の1986年12月。各種イベントが晴海で行なわれ、東京モーターショーやフジテレビの「夢工場」(現お台場冒険王)というイベントを開催するため、コミケが事実上追い出される事態に。そこで急遽東京流通センターに場所を移しての開催となる。しかしキャパ不足の上に、夏は猛烈な暑さ、冬は12月なのに雪が降る猛烈な寒さとなり、地獄のコミケとなった。

 1988年の夏はなんとか晴海に戻って開催できたが、約9200サークル、参加者7万人まで肥大化し、同年の冬コミケは会場がみつからず中止になっていた。こうして会場を押さえるのが困難になったため、1985年に株式会社コミケットを創立。これまで個人で行なってきたが法人化せざるを得なくなって今日(現在は“特例有限会社”)まで続いている。

会場で「おたく」と呼び合う様子から命名

 なお「オタク」という言葉が定着したのもこの時代。会場で互いを「おたく」と呼び合うことに気づいたマンガ編集者が「アニメファン」=「オタク」(当初は「ヲタク」)と呼びはじめたのが起源だ。コミケで初めて会う、年齢も職業もまちまちな人々同士が「相手をどう呼んだらいいか?」を熟考した結果なのだろう。「あなた」も「キミ」もしっくりこないのだ!

50年間の参加者総数推移。コミケ72~95は、3日間にわたりビッグサイトをほぼ貸し切って開催していたため50~60万人で頭打ちに。コミケ96から開催期間を4日延長したところ70万人を越えた(筆者作成)

 晴海の塩対応や老朽化問題、そしてビッグサイト建設計画が発表され、大きく新しい会場を求めた。1989年冬から千葉県の幕張メッセを新天地としコミケ37が開催され、1万1000サークル参加者12万人を記録。大きな箱なのでしばらくは安泰と思われたが、同年、日本中を震撼させた連続幼女殺人事件の容疑者が逮捕される。「宮崎勤事件」である。