「私のことを『人民の子』と呼ばれて…」父親の仲間に母親が激怒した理由
――お父様の仲間「ドウシ」からの電話が掛かってくることがあったと。「ドウシ」の方々は、なにかと梶原家の逃亡生活を手伝ってくれていたのですか? たとえば「隠れるのにいい物件があったよ」なんて教えてくれたりとか。
梶原 おそらくそういうこともあったんでしょうけど、あえて私も母に深く聞かず、本にも書いてないんです。そのことについて詳しく書くと、今になって迷惑がかかる人がいるかもしれないので。
物件探しは母が不動産屋を回って普通に探していました。まわりには「引っ越しが趣味なんだよね」とか「飽きちゃったから」とか言ってごまかしていたようですけど。
――お母様は、いわゆる「活動家」タイプの方々とは距離を置いていたそうですね。
梶原 母はそういうのが好きじゃないんです。本にも書きましたが、私のことを「人民の子」と呼ばれて激怒したこともありました。もともとデパートやスナックで働いていた人だったので、活動家然とした人たちを少し嫌っていたと思います。
――とはいえ、唐十郎さんのお芝居がお好きだったり、サブカルチャーへの関心は高かった。
梶原 そうですね。スナックで働いていたときのお客さんが若松孝二監督で、父と出会う前から若松さんにかわいがってもらっていたり。私もこの世界に入るときに、面倒を見てもらってますしね。
祖母が置屋をやっていたこともあり、いわゆる公務員やサラリーマンといった「堅気」の人はまわりにいませんでした。知り合う機会すらなかったと思います。
「進路となると、ヤクザか、暴走族か、スケバンか」池袋での小学校生活
――当時の池袋の同級生は、どんな子どもたちが多かったですか。「みんな大変だなあと思っていた」とおっしゃっていましたが。
梶原 ヤクザの家庭が多かったですね。小学4年生くらいになると、ヤクザになるかどうかの進路を決めなければいけないんです。なるなら、テキ屋の手伝いから始めて、中学生になったら部屋住みになる、というルートが決まっていて。
――まともに中学に通うこともなく。
梶原 義務教育だから、学校に行かなくても卒業資格はもらえるので。それゆえに、小学校高学年の3年間で基礎を身につける必要があるという。
私の周りで進路となると、ヤクザか、暴走族か、スケバンか。そのくらいしか選択肢がありませんでした。女の子ならホステスという道もありましたけど、うちは祖母が置屋だったので、ホステスは格下だと見なしていました。「芸者とはレベルが違う」って。

