「逃亡犯をかくまっているわりには、かなり目立っていた」母親が小学校の校長先生とケンカして…

――立教大学が近くにありますが。

梶原 存在は知っていましたが、私たちにとっては全く別の世界でした。パスポートが必要なくらい遠い場所。近所から立教に行った人なんて一人もいません。地元の池袋中学校から鉄道高校に進んだ子がいたんですけど、中卒でない子で一番良い進路だったのはその子くらいでした。

――そういった環境にいると、天真爛漫な子供でいられなさそうですね。

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梶原 そうかもしれません。吉田豪さんからは「黒いちびまる子ちゃん」と呼ばれています。特に東京の都心部は、子どもが大人びるのが早いのかもしれませんね。小学3年生までは学童保育に通っていた子たちが、4年生からはヤクザになるかどうかを考え始めるわけですから。

 

――手芸店を経営されていたお母様は、ご近所でも有名人だったとか。

梶原 そうですね。逃亡犯をかくまっているわりには、かなり目立っていました。「もっとひっそりしていればいいのに」と思うくらい。

 小学校のとき、友達に「おまえの母ちゃんが校長の机に乗ってんぞ!」と言われて見に行ったら、本当に校長の机の上に座って、校長先生とケンカしていました。見なかったことにして、その場を去りましたけど(笑)。

――何が原因で校長の机の上で啖呵を切ったのでしょう。

梶原 確か、インフルエンザのワクチン接種を学校で強制されたことに対してだったと思います。「そんなものを全員に打って本当に安全なのか」と抗議していました。ツベルクリンとか、昔はいろいろありましたよね。

母親の手芸店が順調で、生活に困ることはなかった

――お母様はPTA活動などされていなかったのですか。

梶原 忙しかったのでやっていませんでした。でも、学校との関わりはありました。うちの手芸店が家庭科の教材を学校に卸していたので、家庭科の先生とは仲が良かったです。

――お店の経営は順調だったのですね。

梶原 母がデザインした商品を、サンシャインシティやパルコに入っている店に卸していました。内職さんを25人くらい雇っていて、かなり手広くやっていましたね。

 内職さんは、母子家庭の方が多かったと思います。家でできる仕事を回して、支え合っていたんでしょう。そのへんも含めて、やり手だったと思います。

 

――生活に困ることはなかった。

梶原 池袋にいた頃は、全くありませんでした。ただ、ファミコンや流行りの洋服は一切買ってもらえませんでした。お金がないからではなく、母の教育方針です。本だけは、いくらでも買ってくれましたけど。