豊臣秀吉の弟・秀長を主人公に据えて話題を呼んでいる、2026年の大河ドラマ『豊臣兄弟!』(NHK)。だが、日本史全体を俯瞰すれば彼らのような絆は“奇跡の例外”に過ぎない。実は日本史において、血を分けた「弟」とは、最も身近でありながら、その地位を脅かす「最も危険なライバル」でもあった。
ドラマでは朗らかに描かれる秀吉だが、史実では自らの権力を揺るがす芽を徹底的に摘み取る、冷徹な一面も見せている。時には、血の繋がった肉親に対してすら刃を向ける非情さを持ち合わせていたのだ。
そんな「ブラック秀吉」が、なぜ弟・秀長だけは最後まで殺さずに重用し続けたのか。以下、本郷和人氏の著書『「ナンバー2」の日本史』(ハヤカワ新書)より、豊臣秀吉・秀長の関係について取り上げた箇所を抜粋して紹介する。(全2回中の2回目/はじめから読む)
◆◆◆
そもそも父親が同じではない?
ここで、秀吉・秀長の家族関係を整理すると、そもそも秀吉と秀長は、父親が違うとされています。秀吉の父は尾張・中村の農民・木下弥右衛門という人物で、戦の際には足軽として戦場に出ていたとされます。母の「なか」、のちの大政所も農民の出身で、弥右衛門が戦地での傷がもとで亡くなると、竹阿弥という人物と再婚したとされます。
「なか」は前夫・弥右衛門との間に長女の「とも」、長男の秀吉を生み、再婚した竹阿弥との間に次男の秀長と次女の旭姫をもうけました。一説では、4人の子どもたちは皆、弥右衛門との間の子どもだとも言われていますが、史料に乏しく定かではありません。弥右衛門と竹阿弥が同一人物だとする研究者もいます。いずれにせよ、秀吉は弥右衛門や竹阿弥とは疎遠で、秀吉の肉親・親族と言えば、母の「なか」の関係者ということになります。
妹・旭姫は44歳で嫁がされた
秀吉・秀長の姉である長女の「とも」は、父と同じ農民で足軽なども務めていたとされる弥助という人物に嫁ぎ、秀次、秀勝、秀保を生みました。秀吉の出世に伴って、弥助は三好吉房と名乗ります。秀勝と秀保は早くに亡くなりましたが、子宝に恵まれなかった秀吉は、のちに甥にあたる秀次を自分の後継者としました。
妹の旭は最初、農民に嫁ぎましたが、秀吉の出世に伴い、夫も武士の身分に取り立てられています。小牧・長久手の戦いで徳川家康と対峙したのち、秀吉は家康を臣従させるために、旭を家康の妻として駿府に送りました。いわゆる政略結婚ですが、このとき、旭姫は44歳(家康は45歳)。相当なストレスとなったのでしょう、旭姫は子どもにも恵まれず、48歳で亡くなりました。政略結婚として一般に想像されるのは、結婚適齢期かそれ以下の幼い子ども同士の結婚でしょう。苦肉の策だったとはいえ、秀吉は妹にかなりキツい役目を課したのでした。
