難波氏は同じ著作のなかで、「ヤンキーの祭り好き」について「新たな共同性を確保する試み」だと位置づけた上で、次のように推測している。
こうした「祝祭=ジモトづくり」現象の一環に、(20)00年代に世を騒がせるようになった「荒れる成人式」を位置づけることも可能であろう(同書211ページ)。
「荒れる成人式」との共通点
すでに4半世紀が過ぎた今世紀は、日本にとって、この「荒れる成人式」とともにあったのではないか。「荒れる成人式」をめぐっても、すでにたくさんの解釈がなされてきたものの、難波氏の言うように「祝祭=ジモトづくり」現象だと考えると、腑に落ちる。
「荒れる成人式」にせよ、「ラヴ上等」にせよ、矢沢永吉氏にせよ、「世界何位」といった大きな視線は、まったく意識されていない。彼らや彼女たちが気にしているのは、あくまでも先輩や、同じ出演者、自分のファンといった、いわば身内(だけ)である。
成人式でヤンチャをするのは、マスコミや大人へのアピールでもないし、「ラヴ上等」で派手な言動をするのも、カメラの前での演技でもない。矢沢氏が紅白で朗々と歌い上げたのもまた、一般の視聴者のためではない。なぜか。
精神科医の斎藤環氏が喝破したように「ヤンキー文化にメタレベルはない」からである(斎藤環〈ヤンキー文化と「キャラクター」〉五十嵐太郎編著『ヤンキー文化論序説』河出書房新社、2009年、263ページ)。「メタレベル」とは、現実を高い視点から俯瞰する立場だが、これがヤンキーにはない。
斎藤氏は「バカやってるけど純情」や「やんちゃだけど真っ直ぐ」、「ワルだけど情に篤い」といった、ヤンキーキャラの二面性を例に挙げ、「メタレベルはない」証拠だとしている。こうした二面性が、「荒れる成人式」や「ラヴ上等」、そして矢沢永吉氏にも通じる「ヤンキー文化」ではないか。
現代の「ヤンキー文化」は安心?
あの映画『国宝』もまた、こうした「ヤンキー文化」の流れにある。コラムニストの酒井順子氏は、「ヤンキー的精神の源流」に、400~500年前に京都・四条河原で歌舞伎踊りを初めたという出雲阿国(いずものおくに)を挙げる(酒井順子〈女子のヤンキー魂 歌舞伎・ツッパリ・アゲ嬢〉五十嵐太郎編著『ヤンキー文化論序説』河出書房新社、2009年、57ページ)。