徳力氏の言うように、「日本しか生み出せない日本ならではのコンテンツ」と考えれば、こうした歴史の長さと深さが行き着いたのが「ヤンキー文化」だったのだろう。こうした論者たちの慧眼に敬意を表しつつも、それでも、現代ならではのコンテンツとしての特性があるのではないか。それは、ヤンキーが安堵感を与える、という皮肉である。

まず、「ラヴ上等」にせよ「荒れる成人式」にせよ、そして矢沢永吉氏(のファン)にせよ、「ヤンキー文化」の担い手たちは、自分たちではほとんど発信していない。いや、正確に言えば、まさしく私の書いているこの原稿を含めて、「インテリ」たちが(勝手に)言語化したり、考察したりしているに過ぎない。

彼らを語るのは「安全圏」にいる人たち

あの「ヤンキー先生」こと義家弘介(ひろゆき)氏でさえ、「ヤンキー」だった時期は、そこまで長くはない(後藤和智〈「ヤンキー先生」とは「何だった」のか 教育言説における「元不良」〉五十嵐太郎編著『ヤンキー文化論序説』河出書房新社、2009年、236ページ)。その長期間とは言えない「ヤンキー」体験は、たしかに、私のような軟弱者には畏怖の対象でしかない。

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それでも、あるいは、それゆえに、こうやって「ヤンキー文化」を落ち着いて書き記せるのではないか。

身内(だけ)の視線を意識する、というよりも、それに囚われつづけるほかない「ヤンキー」たち自身は、自分たちについて、饒舌には語れない。言葉を奪われており、また、自分たちで言語化しないし、できない。

それに対して、学者にせよ、コラムニストにせよ、安全圏にいる人たち(だけ)が、「ラヴ上等」をはじめとした「ヤンキー文化」を滔々と言葉にする。「ヤンキー文化をわかっていますよ」と、攻撃されないためのお守りのように、得々と語る。

ここに、現代の「ヤンキー文化」の特徴があるのではないか。

「危うさ」から遠くなっている

では、なぜ「ヤンキー文化」を語れるのか。「ラヴ上等」で、冒頭の顔合わせから乱闘寸前にまで緊張感が高まっていたように、「ヤンキー」とは、喧嘩上等であり、暴力とセットではないのか。