日用品の費用まで借金に上乗せされ、働けば働くほど深まる負債。さらに脱走した場合、新聞広告で「100円(現在の40万円程度の価値)」もの懸賞金がかけられ、地の果てまで追い詰められてしまう。西日本有数の遊廓として栄えた二本木には、身体を売って稼がせ続けるためのさまざまなシステムが整えられていた……。

 過酷な環境下で働く彼女たちが、現地の菓子店で見せていた“意外な素顔”とは。ノンフィクション作家の澤宮優氏の著書『かつてこの町に巨大遊廓があった 熊本・二本木の歴史と記憶をたずねて』(忘羊社)の一部を抜粋して紹介する。

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増えていく借金

 時代は遡るが、以下は熊本県(当時は白川県)が公娼を許可した明治7年(1874)1月25日の布達二一号(「酌取鑑札ヲ廃シ貸坐敷並遊女芸妓税則更定之事」)の一文である。

一、    遊女芸妓渡世志願之者ハ、明治壬申十月御規則ノ通父兄親族間ノ添証ヲ以願出候ハゝ詮議ノ上可差許事

 身売りされた娘たちの手続きは親元の身元証明書一枚で、いたって簡素だった。しかも娼妓になるのは、彼女たちの自発的な願いという名目にされた(条文にある「明治壬申十月御規則」は明治5年〈1872〉の芸娼妓解放令を指す)。

 また、明治22年(1889)の県令では彼女たちの年季は7年間とされていたが、たとえ年季が決まっていても、遊廓にいればいるほど、日用品の経費などを借金に上乗せされるから、借金はさらに増えていった。よほどの売れっ子になるか、金持ちに身請けされなければ借金が消えることはなく、苦界から脱出することはできなかったのである。年季通りに廃業する者もいるにはいたが、少数であった。

旧二本木遊廓は二つの川に挟まれていた地。出入りができるのは「三嬌橋(さんきょうばし)」という橋だけだった。現在は建て替えられ、同名の橋が残っている(2026年撮影)©文藝春秋

 昭和の戦前になっても年季明けで廃業できる者は少なかったが、逃げた者はどういう運命を辿ったのだろうか。

 昭和9年(1934)、福岡・大牟田の妓楼から娼妓が脱走した際、妓楼側は大阪の新聞広告欄に尋ね人という名目で100円の懸賞金を賭け、彼女の顔写真、氏名、年齢、身体の特徴などを載せたという記録が残っている。逃げおおせるのは至難の業だったのである。