入院費用は妓楼が負担することになっていたが、検査費用の月15銭(明治14年〈1881〉当時)は、娼妓の上納金(自費)で賄われた。明治22年(1889)、二本木の駆黴院管轄の娼妓は約1年ほどの間に342名が検査を受けたが、梅毒で入院したのは175名に達した。

 遊廓街のど真ん中にあった菓子店に生まれた永谷誠一は、娼妓たちが揃って病院に定期検診に行く姿をよく目にした。10人ほどの娼妓が連れ立って店の前を通る。彼女たちが明るく挨拶をすると、お婆さんが「ちゃんと戻ってこないといけないよ」と声を掛けた。二本木の町は下町の人情味に溢れ、娼妓らにも分け隔てがなかったが、帰りは人数が減っている。検査に引っかかったら即入院だった。なんともやりきれない光景だった。まだ太平洋戦争の前である。

「表情はにこにこしていましたけど、子供心に売られて来ていることも分かっていました」

「私の家の前を通って、娼妓さんたちが行ったり来たりしていましたし、しょっちゅう店にも来ていました。表情はにこにこしていましたけど、子供心に売られて来ていることも分かっていました」

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写真はイメージ ©AFLO

 週に一度の梅毒の検診の帰り、娼妓たちはよく店に寄っていった。店は和洋両方の菓子を作っていたが、彼女たちはシュークリームなどの洋菓子、今で言うスイーツが好きだった。なじみの娼妓も多かったが、検査を受け、異常なしという結果で安堵感もあったのだろう、永谷の母や姉と世間話に興じ、よく長居した。

「言うならば淋しい境遇の人たちばかりですからね。家庭の雰囲気というか、そういうのが欲しかったのかもしれませんね」

 そこから見えるのは、ごくふつうの若い女性と同じで、甘い物が好きな乙女の姿だった。

 一方で、こんなにきれいで上品な人もいるのかと見惚れるほどの女性もいた。なぜこんな人が遊廓に来るのだろうと思った。

「今でもその人たちの面立ちを覚えています。上品で本当にきれいでした。何でこんな人が遊廓にいるのだろうと。気品も教養もありました。やむをえぬ事情で借金を背負った親のため、自分から身を投げ出して遊廓に来ているわけです」

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