遊廓には「豆ちゃん」と呼ばれる少女たちもいた。二本木の菓子店に生まれた永谷誠一によれば、学校から帰り、妓楼に菓子の配達に行くと、12、3歳ほどの少女たちが、冬も素足で部屋の掃除、洗濯、台所仕事などの下働きに勤しんでいた。この「豆ちゃん」たちも売られてきた身だが、娼妓になれる年齢は決まっていたので、それまでの間、下働きをさせるために連れて来られたのだろう。永谷は言う。

「まだ身体を売って稼げる前の段階ですね。年端も行かないのに、見ていて可哀想でした。遊廓は外から見れば華やかですが、中はそういう娑婆。借金を返して自由の身になった人もおったでしょうけど、私の周囲でも心中事件があったり、自殺したり、痛ましい出来事がありました」

 娼妓となる年齢は、明治11年(1878)の娼妓規則第二条で満15歳以上と示されていた。同33年(1900)の内務省令では、18歳未満は娼妓になってはいけないとされ、徐々に年齢が引き上げられている。

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写真はイメージ ©AFLO

不治の病―梅毒の検査代も自腹

 娼妓にとって最大の恐怖は、当時は不治の病だった梅毒である。熊本県では明治11年(1878)、貸座敷規則が定められ、駆黴院規則を守って定期的に検査を受けるように通達された。違反には罰則も設けられた。

 翌明治12年(1879)1月31日には二本木に熊本病院出張・二本木病院が設置された。後に二本木駆黴院と改称する(同22年〈1889〉熊本楳毒院、さらに熊本県立二本木病院へと改称)。病院は遊廓街の南にあり、戦後は共立病院になった。

 梅毒の検査には国も力を入れた。娼妓は妓楼の区分によって上中下と三つに分けられていたが、下等は毎週土曜日、中等は毎週水曜日、上等は毎週金曜日に検査があり、朝9時に駆黴院に出頭しなければならなかった。検査では、娼妓としての営業許可証である鑑札を病院に提出し、梅毒でなければ戻してくれた。梅毒が見つかれば鑑礼は戻されず、すぐに入院の手続きをしなければならない。明治28年(1895)には梅毒だけでなく、下疳、淋病、肺結核など検査の対象が広げられる。

 規則が厳しくなった背景には、日清、日露戦争と戦時色が強まってゆくにつれ、兵隊への感染を防ぐという目的があった。昭和になると、梅毒検査対象は娼妓だけでなく、芸妓(芸者)の他、料理屋や待合茶屋、飲食店の給仕にも適用された。水野公寿が指摘するとおり、

〈この検梅の拡大・取締り強化は徴兵検査で多数の性病患者が発見されたためであった〉(『市史研究くまもと』第10号所収「東雲のストライキ考」、平成11年〈1999〉)