波木:『万事快調』のスピンオフということで、原作では書かなかった、書けなかったことをやろう、というのが最初の構想としてありました。まず、ヒップホップ。『万事快調』でも題材として取り上げましたけど、あんまりヒップホップとかラップのかっこいい面を描けなかったなと。それは意図的な部分もあるんですけど、だからこそ今回は、正統的な、ラップをする楽しさとか、ヒップホップのかっこよさ、何か前向きなエフェクトを自分自身や他者に与える側面を書けたらなと思いました。

順風満帆〈クラウド・ナイン〉』書影

――作品はラップバトルイベントの様子から始まります。そしてラップバトルのリリックがすべて記述されていきます。全部で5試合分のリリックをお書きになっていますが、これはけっこう大変だったんじゃないでしょうか。

波木:そうですね。8小節4本で、先攻・後攻に分かれて交互にラップし合うっていう、日本のMCバトルシーンの主流なルールがあるんですけど、それをそのまま踏襲して、実際のバトルで交わされるフリースタイルラップをそのまま全篇載せる、というチャレンジでした。ラッパーそれぞれ属性も違えばラップのスタイルも違って、それを文字だけで表現するのは難しかったですが、楽しくもありましたね。イベント参加者の一人として『万事快調』の主人公の朴秀美を登場させたんですが、映画で南さん演じる朴のかっこいいラップを見ていたので、書くのにも気合いが入りました。

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デビュー当時の不安定な自分、コロナ禍特有の流行

――では次に「ラッキーパンチ・ドランカー」という短篇についてお聞かせください。こちらは2022年6月号の「小説新潮」で発表された作品ですね。

波木:これはボクシングを題材にした、言ってしまえば、ラブストーリーですね。タイトル通り、ラッキーパンチでプロ選手になってしまったボクサーのお話で、自分の才能に自信はないけれど、ボクシングをやめるわけでもなく、続ける強い意志があるわけでもない、という不安定なところのある主人公と、その理想の恋人の話です。

――デビューしてすぐの頃に書かれた作品かと思いますが、当時のことは覚えてらっしゃいますか?

波木:今思えばですけど、この主人公の「自分はラッキーでプロになったんじゃないか」みたいに悩んでいる心境が、作家としてデビューして、これからどうすればいいんだ、みたいな当時の自分の心境を反映してるんじゃないかなと。安定を取るか、今いる快適な状況を捨てて新しいところに飛び込むか、どちらかを選ぶことになった主人公を書こうとしたんだと思います。

――3篇目の「結局のところ、わたしたちはみな」も同じく2022年の発表ですね。「オール讀物」2022年6月号掲載です。アルバイト先の居心地の悪い飲み会に参加している主人公が、喫煙所で一緒になった同僚と話すうちに、彼が猫を飼ってもいないのに“猫との暮らし”をエッセイ漫画として描いている、ということを知る。そしてそこから主人公もちょっとした行動を起こす、というお話です。これはどういうところからスタートしたんですか?

波木:これが作家デビューして一番最初に書いた短篇です。題材として面白いものが書けたらなと思っていて、この当時、コロナ禍の真っ只中だったんですけど、作中にもそういう描写がちょくちょく出てきます。主人公はネットの個人ブログでお悩み相談みたいなことを始めるんですけど、当時そういうのが流行ってたというか、結構ネットを席巻してたんですよね。それを書いてみようと。ネットの嫌な部分みたいなのを茶化すというか、題材にしつつ、お悩み相談を見る人、書く人の心境を考えてみたら、面白いものになるんじゃないかなと思って書いていきました。