羆に遭遇しないルートを選ぶ

 当たり前のこととして、私は羆に用心するから、遭遇することは滅多にない。私が羆を避けようとするのと同じように、羆もまた私を避けようとしてくれる。風上の匂いに注意を向けつつ羆に遭遇しないルートを選ぶ。私なんかよりもずっと鋭い嗅覚を持つ羆は、たぶんより用心深く避けてくれる。羆も人間も、お互いに出会いたくないと思っている、このくらいの距離感がちょうどいいのだし、そこに信頼がある。

 蹄の足跡を辿ってきた長靴の足が水辺に辿り着く。立派な角を持った牡鹿が一頭死んでいた。あるいは足跡の主だったのかもしれない。病気だったのだろうか。この水辺で最期に喉を潤したのだろうか。はっきりしたことは何もわからない。別の可能性として、足跡の主はもうずっと遠くまで軽々と駆けてしまった後なのかもしれなかった。なんであれここに残された死は、私に自分が今、生きているという実感を喚起する。ぞくぞくっと生の感触が肌を走る。目を凝らせば、浅い水のそこ、ここに、金色に光る草の根元に、白い骨片が散らばっている。もうすぐこの死を食らう者たちが集うだろう。そしてきれいな骨片になるまで食い尽くされるのだ。大きな魚が水面に浮かんできたのを見れば、ボロボロの尾びれでゆっくりと進む産卵を終えた鮭〈ホッチャレ〉だった。ああ命だ、と思う。生命の輪がここにある。

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 風はやんでいた。百メートル以上は離れた高い場所に黒っぽい塊が見えて、羆だとすぐにわかった。冬眠の季節が迫っているからせっせと食べ物を探しているのだろう。昨年は人里への熊の出没が相次いだ。ニュースを見るたびに思うのは、人間は熊という動物に対して実にさまざまなイメージを与えているなということだ。たくさんの愛らしい熊のキャラクターたち、それとは正反対の獰猛な人食い熊の恐るべきイメージ。人間たちはそれぞれに様々な熊の姿を語る。そのイメージをもとにある者は熊を守れと言うし、別の者は絶滅させてしまえと言う。でも本当のところ、熊は熊という一頭の獣でしかない。私の頭に浮かぶ熊の姿は、キャラクターでも人食い熊でもなくて山に当たり前のようにいる一頭の獣であり、それは私がこうやって山を歩きながら時間をかけて知っていった熊の姿だ。ニュースを見た人間が熊に対して持つイメージが、ネットを中心に人々の話題に立ち現れる熊の姿なのだとしたら、そこには現代の私たちが懸念する問題が投影されているのではないか。例えば排外主義のような。人間は知らないものを極度に恐れ、排除しようとする習性がある。