昨年の「今年の漢字」にもなった「熊」について、近くから、遠くから、考える。「文學界」2026年2月号の特集「熊を考える」より、作家・沼田真佑さんのエッセイ「サバーバンのベア」を特別に公開します。

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 玄関を出たら、クマと鉢あわせするかもしれない地域に住んで、この原稿を書いている時点での話だけれども、早一カ月になる。東北は岩手の盛岡市郊外、部屋の窓から見えるのはすでに収穫を終えた畑と冬田、そして川水のきらめき。その川というのは二本あって、ひとつはたっぷりした水量のある大きな河川、もうひとつはその支流に当たるさらさらした小川だ。木立ちもちらほら見える。裸木の根方にすがれた草の穂が揺れていたりして、ひなびたいい景色だ。気温はこのごろだと朝晩は氷点を下回る。十一月のあたまには初雪も観測された。

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2025年、盛岡市内の住宅地にも出没し、駐車場を歩くクマ(FNNプライムオンラインより)

 それでも晴れた昼間には窓からぽかぽかと日がさし、ストーブもつけているから暖気で眠くなったりもするのだが、この日は朝から集中が途切れず、机を離れたのは午後の二時過ぎだった。仕事に欠かせないのが音楽とタバコで、CDはもう十数枚消費していたが、タバコのほうは、部屋では吸わないことにしているので、そのつど台所に移動しなければならない。それが億劫で、今日はまだ寝覚めの一本しか吸えていないことを思うとむやみに吸いたくなってきて、ところが台所へおりてみると、あるはずのタバコがない。箱だけあって中身が空になっている。外出の必要に迫られたわけだが、そこは田舎町で、たったそれだけの買い物にも車を使うことになる。部屋着の上からジャンパーを羽織り、おっかなびっくり外へ出る。玄関のドアをあけ、タバコ買ってくるとか何とかひと声かける。屋内にではなく、むしろ戸外へ向けて。周囲をざっと見渡してから、わざと足音を立てて車まで歩く。

 最寄りのコンビニは、車だと二、三分で着けるのだが、気分転換もかねて川向こうのコンビニまで足をのばすことにした。橋のたもとで信号につかまり、その信号待ちのあいだに車外の風景に目を走らせた。何も異常はない。どこにも黒い影はない。いや、遠くの農道にひとつあった。助手席から双眼鏡を取りあげ、目標物へピントをあわせる。廃タイヤらしかった。双眼鏡なんて持ってきたのはクマに対しての備えで、早めの発見を心がけているわけだ。コンビニの駐車場に車を入れても、すぐにはドアをあけない。まずはルームミラー、それから両サイドミラーに目をやって、しかるのち目視で周りの安全を確認したうえで車をおりるようにしている。けれどもそれは、本当に危機意識からの行動だろうかと、買い物を済ませて再び車に乗りこもうとしたところで、自問した。興味本位からのことなんじゃないかと。