秀吉が唯一頼りにしていた弟・秀長
秀吉が天下を獲った後も、秀長は働き続けます。秀吉に謁見しに大坂城に来た大名が、秀長を探しに行ったときのこと。大納言だった秀長が、城の工事現場に立って、監督を行っていたという記録が残っています。元々、身分が高い家の生まれではなかったからか、偉くなっても腰が低い。
実は秀長が兄から信頼されたのは、親族に仕事が出来る人間が少なかったという面もあります。たとえば豊臣秀次は、小牧・長久手の戦いで敵襲を受けると、有効に反撃できず逃げ帰る戦下手でした。養子の小早川秀秋は若い頃から大酒飲みで体を壊したほど。使えない身内が多いなか、秀吉が唯一頼りにしていたのが弟だったのです。秀長としても、兄と協力していくことが、自分のためになると考えていたのでしょう。
2人には似ている点も多い。秀長同様、秀吉も身分が下の者にも気を配れる目線を持っていました。
客人へのもてなしも丁寧です。毛利輝元が、秀長が治める大和に招かれた時のこと。汗だくで馬に乗って出迎えにきた男がいて、誰だろうと思ったら秀長だった。家康が大軍を引き連れて上洛してきた際、兄弟は猿楽などの芸能や大量の酒で気前よくもてなします。秀吉自らお酌したり、ボディタッチで距離を縮めたりと、“接待攻勢”で家康の懐に入り込んだのです。
莫大な財産を築いた秀長
何より似ているのは、金儲けが上手いこと。秀吉は但馬に攻め入った際、竹田城を落とし、日本有数の生野銀山を軍資金の財源として手中に収めることができました。一方の秀長は、大和の商人たちに「奈良借」と呼ばれる高利貸しを行い、産業投資を行いながら莫大な財産を築きました。
もちろん、兄弟には相違点もあります。1つは顔が似ていなかったことです。秀吉は「サル」「ハゲネズミ」と呼ばれる容姿で背も小さい。秀長は威厳のある顔立ちで、信長の馬廻衆(大将の周囲で護衛などする職)をしており、秀吉のような小柄で目立つ体格だったとは考えにくい。
