高貴な家柄ではないにも関わらず、天下人へ登りつめた豊臣秀吉と、兄を支え続けた豊臣秀長。『豊臣兄弟 天下を獲った処世術』(文春新書)の著者で、歴史学者の磯田道史氏が、ドラマだけでは分からない、2人の“本当の関係”を明かす。

 

▶︎秀長の趣味は「女より蓄財」
▶︎秀吉は「お嬢様好き」

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なぜ豊臣兄弟は仲が良かったのか

 今回の大河ドラマでは、秀吉と秀長の2人が“強い絆”で様々な苦難を乗り越え、出世の階段を上っていく過程が描かれます。

 しかし、当時は兄弟といっても、決して油断できない時代でした。たとえば織田信長は、自身が病気であると偽り、弟の織田信行を清須城に呼び寄せて刺し殺しました。伊達政宗も弟の政道を誅殺しています。

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 兄弟仲の良い戦国大名は珍しく、武田信玄と弟の武田信廉(のぶかど)、3または4歳違いの豊臣兄弟ぐらいでした。

 ではなぜ豊臣兄弟は仲が良かったのか。ひとえに、出世を目指した秀吉にとって、秀長が働き者で、有用な存在だったからです。

磯田氏は豊臣兄弟の「処世術が面白い」と述べる

 一般的に秀長は、大名との交渉や調停などの外交や領国統治に秀でていたと言われていますが、武力の面でも頼もしい存在でした。

 実力を見せつけたのが、1578年から織田氏と別所氏の間で繰り広げられた三木合戦です。この時、秀吉は別所氏が籠城する三木城の向かいの平井山に本陣を置いていた。食料が尽きてきた別所軍は、事態を打開するために平井山に突撃し、秀吉方の第1陣を突破します。第2陣で待ち受けていたのが秀長軍。しかし、別所軍はこれを破ることが出来ず、名のある武将が何人も命を落としたのです。敵に第1防衛ラインを突破されても逃げずに戦ったことで、秀長の評判は高まりました。

 信長の跡目を巡って、秀吉と柴田勝家が激突した1583年の賤ケ岳の戦いでも同様です。秀吉が濃尾平野に進軍しているなか、秀長は賤ケ岳に攻め込んできた勝家軍を迎え撃つことになります。そこでも秀長は要塞を構え、塀の中から火縄銃で防戦。救援に戻ってきた秀吉と力を合わせ、勝家軍撃破に成功しました。