秀吉は相当な“お嬢様好き”だった
さらに大きく異なるのが“好色”の度合いです。秀吉はとにかく派手。正室の北政所のほか、10人以上の側室がいました。この側室は、浅井長政とお市の方の間に生まれた淀殿、京極家の竜子、前田利家の娘の加賀殿など、名家の出身ばかり。相当な“お嬢様好き”だったことが窺い知れます。
それに比べて秀長は、正妻の慈雲院のほか、側室は数人の規模。地味な女性関係だったと言えます。子供も少なく、跡を継ぐ男子がいなかったため、家督は養嗣子の甥が継ぎました。秀長は晩年を大和郡山城で過ごしますが、死後、城の蔵には天井近くまで金銀が積み上がっていたとも言われます。秀長にとっては、女性よりも蓄財が心を満たすものだったのかもしれません。
本能寺の変以降、秀吉は天下人への道を駆け上がっていきます。秀長は兄の命を忠実にこなしていきますが、いささか働き過ぎたきらいがあります。大和郡山城を建設しているのに、和歌山城も作らされた。紀州の統治が完成していないのに、四国に遠征をさせられ、次は九州へ……いくら秀長でも体を壊します。遂に1590年の小田原征伐にはついていけず、翌年に秀長は病死します。兄のブラック企業もかくやという命令で、過労死した疑いがある。
ただ、秀吉本人も働きづめでした。それは京都の豊国神社に残された歯を見れば明らかです。殆ど磨かれた形跡がないほど歯石や歯垢が残っているのです。歯磨きする暇なんてあるかと、猛烈に働き、猛烈に指示を出し続けたのでしょう。
2人は戦国時代に、「働いて働いて……」を体現した兄弟だったのです。
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