長期戦となった三木城攻めとは対照的に、わずか1カ月余りで決着した備中高松城の「水攻め」。この電撃攻略を支えたのは、秀吉の戦術以上に、ある「莫大な財源」の存在だった。

 信長から与えられた生野銀山という最強の財布を武器に、秀吉・秀長兄弟はいかにして土木工事の常識を覆したのか。歴史学者の磯田道史氏の新刊『豊臣兄弟 天下を獲った処世術』(文春新書)より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/後編を読む

◆◆◆

ADVERTISEMENT

生野銀山を手中に

 天正五年十月、秀吉・秀長は但馬に攻め入ると、竹田城(いまの兵庫県朝来市)を落とし、秀長が城代となります。『信長公記』には、竹田城を落とした秀吉が「普請申しつけ」、大規模な城の工事を命じた、とありますから、現在、「天空の城」で知られ、多くの観光客を集めるあの美しい山城は、秀長が手掛けた可能性があります。

 現存する竹田城は、天正十三(一五八五)年に赤松家が建てたとされていますが、発掘調査では、階段なども全面張りの石畳となっていたことが分かりました。石垣を積む技術は豊臣家の得意技です。

 この竹田城を得たことが、秀吉・秀長にとって決定的に重要でした。それはこの城が近くにある生野銀山の警備の拠点だったからです。生野銀山を押さえることで、秀吉は天下を狙うことが可能になった、といっても過言ではありません。

 これには、戦国大名の財政構造を踏まえておく必要があります。大名たちの経済基盤といえば、まずは領地です。そこから上納される年貢が財政を支え、そこに暮らす領民たちは労役を課したり、足軽として動員したりする人的資源でもあります。

 しかし、たとえば毛利家百十万石といいますが、毛利家の当主が持っている領地自体はそんなに大きくはありません。家臣たちに分け与えなくてはならないからです。「毛利領」といっても中身は大半が家臣団に配分された土地なのです。これは兵力についてもいえます。戦国大名とは、家臣団の連合体です。家臣たちはそれぞれ兵を養い家臣団をもっており、それが集合して「武田軍」や「上杉軍」を形成しているのです。

 戦国大名は自領の年貢だけでは戦争には勝てません。銭が要ります。ことに鉄砲が普及すると、鉄砲や弾薬などを買い付けなければなりません。秀吉が得意とした戦場での土木工事にも、「銭」が要ります。そうした軍費は、武将自身が身銭を切るほかありません。