バブル景気で、「人情の町」に地上げの牙が襲い掛かった

 笹野さんは1943(昭和18)年生まれ。日本橋の蕎麦屋で修行し、1970(昭和45)年に暖簾分けをしてもらい、富久町で店を開いた。木造の小さな借り店舗で、夫婦で蕎麦を茹で、店と出前で商売に力を注いだ。

 時代は高度経済成長期。笹野さんが富久町に来た翌年、近くで12階建のビルの建設が始まるなど、新宿一帯は新しいビルが建ち、どんどん変化していく。笹野さんは当時、工事現場への出前が増え、丼20個を一度に担いで届けることもあったという。

 夫婦で地道に働き、1985(昭和60)年には西富久地区に念願の店を建てた。30坪の敷地に建つ自宅兼店舗で、靖国通りから一歩入った角地だ。出前も変わらず続けていた。

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西富久地区の角地に建てた「いさ美庵」の店舗。3階の一部は人に貸していた

 西富久地区は、昭和の終わりになっても小さな店や家が並び、旗竿地も多かった。自転車1台がやっと通れるような狭い路地ではご近所さん同士が立ち話をしたり猫が昼寝をしたり、のんびりとした光景が広がっていたという。

 町内会も活発で、住民が「お稲荷さん」と呼ぶ富受稲荷の祭礼は非常に活気があったと笹野さんは振り返る。温かいコミュニティが存在する、人情の町だった。

 しかしバブル景気に突入し、町は地上げの波に飲み込まれていく。

 笹野さんが異変に気づいたのは、1987(昭和62)年のことだった。町にはその少し前から「地上げ屋」が入り込んでいた。