「中には札束が」ジュラルミンケースを持った人が町をうろつくように

「お蕎麦を食べに何度か来てくれたお客さんでね、あるとき『来週月曜の午後2時にお邪魔したいんですけどいいですか』って言うから『構わないですよ』って答えて。当日少し遅れてやって来て、大きな菓子折りを持ってきてね。

 遅れちゃって申し訳なかったからお詫びの印です、って。どういう人なんだろうって疑ってみるようになったね。しばらくたって『ここでは商売が難しいでしょうから、駅の近くに引っ越しませんか』と持ちかけてきたんです」

 当時、いさ美庵が新店舗になってまだ2年。「建てたばかりだしお客さんも付いているので、よそへ移る気はさらさらなかったですよ」と笹野さんは振り返る。それに、提案された代替地はどれもこれも変な場所だったという。

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赤枠で囲まれているのが西富久地区。笹野さんが指さす左側の角地に「いさ美庵」があった

 新宿駅から近く、古い木造住宅が並ぶ西富久は、ビル建設や再開発において非常に魅力的な場所だ。特にこの地に惚れ込んだ不動産会社・コリンズが土地の買い占めに動くようになり、住民のなかには立ち退く人もポツポツ出てきた。

 角地に立ついさ美庵からは町に出入りする人がよく見え、笹野さんは「今日も大勢来たな」と地上げ屋の動きを知ることが増えていく。出前で町をまわる蕎麦屋という職業柄、町や人の変化も肌で感じとっていた。

靖国通りから医大通りへと抜ける道。通称「ニコニコ通り」は店や住宅がひしめく場所だった。右手に笹野さんのいさ美庵の看板が見える

「ジュラルミンケースを5~6個持った人が歩いているんです。中には札束が入っていて、私も見たことありますよ。地上げ屋なんてね、デタラメなんですよね。最初来たときは坪700万~800万、その次に来たときは1000万円、その次は1500万円出すから売ってくださいって。いちばん高値で言われたのは、坪3000万円、全部で10億だったからね」

 金額を上乗せしながら交渉をする地上げ屋。怖い風貌の人かと思いきや、「物腰はやわらかで、乱暴な口をきく人は少なかったですよ」と笹野さん。銀行員のようなカチッとした雰囲気だったという。

次の記事に続く 「ダンプが店に突っ込んだ」「3回放火された家も」バブル期の地上げで荒れ果てた東京・新宿“再生不能の町”の住民が振り返る当時の「恐怖」

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