姉と2人で赤坂に「ままや」という小料理屋を出したのは、昭和53年です。姉自身が寛げる場所を欲しがったのと、嫁ぐ気配のない私の、自分がいなくなったあとの身を案じてのことでした。

向田和子氏 Ⓒ文藝春秋

 連作短編「花の名前」「かわうそ」「犬小屋」の3作(のちに『思い出トランプ』に所収)で直木賞をいただいたのは、その2年後です。まだ雑誌に連載中の作品が受賞するのは異例らしく、本人も意外で嬉しかったようです。だいぶたってから、こんなことを言われました。

「あなたね、人生捨てたもんじゃないわよ。50になって、直木賞いただいて、スタートラインに立った。人間、80の力しかないって思ってても、何かの拍子で120に評価されると、120の力になっちゃう。だから、あなただって頑張れ」

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 話の落ち着き先は、やはり私の心配でした。

「いつもの邦子じゃない」

 姉が亡くなったのは、ままやの開店から3年後。直木賞を受賞してからわずかに1年後です。作家としてはこれから、というときでした。

 前の日に不思議なことがあったんです。台湾に着いた翌朝でしたけれど、姉が国際電話をかけてきたのです。旅先から電話があること自体珍しく、せっかちな人だから通話はいつも短いのに、あの日に限ってゆっくりでした。

「人生バランス説だからね。いつも奢ってもらってばかりだから、もうこの辺で、奢り返させてよ」

 私がそんな話をしたら、

「はいはい。奢ってもらいます」

 という返事でした。そのあと電話を代わった母とも、長い時間喋っていました。でも「台湾ではこんな物が美味しい。今度みんなで一緒に来よう」なんていう話は、日本に帰ってからでもできます。「電話は短くしなさい」と言っていたくせに、なかなか切ろうとしないのです。

 私は「こんな姉ちゃん、初めてだな」と思ったのですが、母も勘のいい人だったので「いつもの邦子じゃない」と感じたらしいです。そのときは、お互い口に出しませんでしたけれど。

 姉が亡くなったあとも私はままやの営業を続けましたが、60歳を機に閉店しました。他の人に引き継ぐ考えはありませんでした。姉と2人で作った店ですから、私の手を離れて続けることは姉の意思にそぐわないと考えたのです。

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