アポなしでジャニーズ事務所へ

 田原は神奈川県横須賀市で生まれたが、父の死後、母の実家のある山梨県甲府市に移り住んだ。家族は母と姉2人に妹と、男は田原だけ。テレビのチャンネルを選ぶ権利も彼女たちに握られており、家ではタレントが出る番組を見るしかなく、また姉の買ってくる『月刊明星』などアイドル雑誌を普段から読んでいたので自然と芸能界に夢中になっていったという。地元の工業高校に入ってから将来の進路を考えたところ、ふと芸能界に入るのはどうかと思い立ち、高1の夏休みに上京してジャニーズ事務所(当時)をアポなしで訪ねている。このとき社長のジャニー喜多川と会うことができ、歌手になりたいと直談判すると、来週からレッスンに来るよう言われた。

 それからというもの毎週末に甲府から東京に通ってレッスンを受け、高校卒業後には正式に入所する。しばらくは先輩のフォーリーブスの付き人などの仕事をこなしていたが、まもなくして前出の『3年B組金八先生』に出演が決まった。このとき同じくジャニーズから出演した近藤真彦、野村義男とともに「たのきんトリオ」として売り出される。

 もっとも、田原は歌手としてはグループではなくソロでデビューしたいとジャニーに言い続け、その念願をかなえた。1983年まではトリオでの活動と並行してソロ活動を行い、若い女性たちから熱狂的な人気を集める。歌手デビューが同期の松田聖子とグリコのCMで共演したときには、2人の仲が良すぎると田原のファンから松田にクレームが殺到するほどだった。

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松田聖子と共演したグリコのCM

「自分の思っている額と見合っていない」事務所へギャラ直談判

 自分の望みははっきりと主張することは、彼の芸能人生のなかで一貫している。デビューから10年ほど経つと、ほかの事務所の先輩から話を聞いたりするうち、もらっているギャラが自分の思っている額と全然見合っていないことに気づいた。そこで事務所の副社長のメリー喜多川に直談判して、ギャラの値上げを訴えたという。その後、30歳になった1991年にはジャニーズに所属しながら個人事務所を設立し、依頼される仕事は田原自ら受けるかどうか決めるようになった。

 20代後半ぐらいから大人の男性としてセクシーなイメージを前面に押し出すようになっていた。前出の『ラジオびんびん物語』の主題歌となった「どうする?」(1987年)は、歌詞が性的なことを連想させるとの関係者の懸念から、詞を書き直すため発売が延期されている。ライブ中に突然、衣装をおろして黒のビキニパンツ姿になり、客席を興奮で沸かせたこともあった。