エミリー・ブロンテの『嵐が丘』はこれまで数多く映画化されてきたが、マーゴット・ロビー主演、エメラルド・フェネル監督による新作は、公開されるやいなや賛否両論の嵐を巻き起こしている。その最大の理由は、あまりにも大胆な「原作改変」にある。本作は単なる映画化か、それとも古典の破壊か。新潮文庫版の翻訳を手掛けた鴻巣友季子氏が、本作に隠された「意図的な切断」の正体を鋭く分析する。(*映画のセリフ部分は字幕の直接引用ではなく、筆者が大意をとって訳したもの。また原作からの引用はすべて鴻巣訳。)全2回の1回目/2回目を読む

『嵐が丘』

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タイトルの引用符にこめられたアイロニー

 もう何回目になるのかわからないが、『嵐が丘』が映画化された。エメラルド・フェネル監督による本作は、先行して公開された海外では賛否両論が巻き起こっている。ちなみに、私としては楽しめるところが多々あった。

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『嵐が丘』

 批判の一つは原作への忠実性を欠くということ。まず言うと、原作の映画化というのは二次的ながら独立した創作物であり、原作への忠実性をどこに置くか、いかに置くかは、一概に正解が出せるものではない。フェネル監督の映画はWuthering Heightsが引用符で括られており、昔は映画のタイトルではこれが普通だったらしいが、現在、引用符は「アイロニー」「からかい」「疑問」「留保」などのニュアンスを包含する。監督は「14歳のときに原作から受けた衝撃を自分なりに映像化した」と言っているので、引用符は一種の自己ツッコミ(予防線)にも見える。

連鎖から切断へ―—原作の意図をことごとく転覆

 原作との大きな違いを2つ挙げるなら、原作後半に描かれる第2世代の物語がすっぱり断ち落とされていること、家政婦ネリーと店子ロックウッドの語りとして展開する枠物語の構造を完全に取り払っていることだろう。

『嵐が丘』キャサリン

 この2点をもって、もはや原作とは別物と考えたほうがいいかもしれない。原作を愛するみなさんの本映画に対する戸惑いやもどかしさは(原作を翻訳した)私にはとてもよくわかる。とはいえ、本稿はその違いを元に「嵐が丘」という小説と映画の双方を楽しめる解説としたい。フェネル版『嵐が丘』には上記の大改変だけでなく、マイナーチェンジに見えて作品の根幹に関わる変更が張りめぐらされているのだ。