結論として、今回の映画は原作の意図をことごとく転覆させるものになっていると言えるだろう。原作には当時の大英帝国の植民地主義や家父長制が根源となって引き起こされる差別、虐待、支配、復讐、愛と憎しみの「連鎖」と「継承」が描かれ、それらへの批判が込められているが、映画版にあるのは、伝統、歴史、家、家族といった概念の「切断」および「封印」だとすら思えるのだ。それぐらい原作の世界観の断ち切りがあちこちに周到に仕掛けられている。社会構造への批判や否定というより、もはや継承という概念や家制度そのものを消し去りにかかっているように見える。フェネル監督はキャサリンとヒースクリフの愛だけを永らえさせ、それのみで純粋完結しようとしたのではないか。

『嵐が丘』

 では、小さな鍵穴から大きな世界を眺めてみよう。

変更点その1 ヒースクリフが拾われた場所

 これは見すごしかねない変更点だが、重要だ。原作では、ヒースクリフはアーンショウ家の心優しい父がリヴァプールに出かけて拾ってきたのだが、映画ではこれを序盤ではっきりと否定している。冒頭あたりでヒースクリフ(オーウェン・クーパー)の姿が町の処刑場近くで映し出されるとおり、「嵐が丘」の近辺で拾われたのだ。小突き回されている少年を見てアーンショウ家の父(マーティン・クルーンズ)が不憫に思い、「リヴァプールやブリストルじゃあるまいし、子どもを殴るな」と言って、引きとってきたと言う。

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 なぜわざわざそんな変更を? と思ったが、当時リヴァプール、ブリストルと言えば、大英帝国の「三角貿易」における奴隷売買の主要拠点だ。ヒースクリフは原作ではdark-skinnedと形容されているため、当然奴隷として買われてきたアフリカ系の子どもだと考える向きもある。この人種とキャストの問題については別の機会に譲るが、作中のさまざまな描写に鑑みるに黒人と限定できるわけではない。イングランドの白人社会においては、黒っぽい、異質な、出自不明の、脅威的な存在ということだろう。

『嵐が丘』

 今回の映画化で、まずヒースクリフとリヴァプールという土地柄を切り離したのは、ヒースクリフ=アフリカ系という一部の固定イメージを解き、彼を奴隷制の歴史からもはぐれさせて、存在の孤立性を強調するためでもあるのではないか。ところが、こうした変更を伏線に入れても、ジェイコブ・エロルディが配役されたことに批判の声も上がっている。