「まあ女の子を置いている置屋さんという店が20年ほど前までは8軒、いやもっとあったかなぁ。もういまは機能しているのは1軒、2軒です」
三重県志摩市の離島・渡鹿野島。かつて「売春島」として全国に知られたこの島で、一体何が起きていたのか。島生まれ島育ちで渡鹿野区の行政も担う三橋恭平さん(仮名・当時60代)への取材で、驚くべき島の歴史が明かされた。
江戸時代から続く「菜売り」文化と戦後の口コミ
渡鹿野島の売春の歴史は江戸時代にまで遡る。「この島は昔から『風待ち港』という俗称で、江戸時代から江戸と大坂を結ぶ航路上の港街だった」と三橋さんは説明する。島の女性たちは「菜売り」と呼ばれる仕事に従事していた。
「小さな天馬船に乗って、畑で取れた菜っ葉や大根などの野菜を船に売りに行くんだよ。『菜いらんの?』『菜いらんかな?』そう声をかけながら船に近づいて売った」
しかし菜売りの仕事はそれだけではなかった。
「縫い物や洗濯など身の回りの世話もしたという話だ。はたまた自分の相手(売春)もさせ、お駄賃をもらったと」
島の住民たちは多くの養女を受け入れ、その養女を菜売りの仕事に就けさせていたのだという。
「売春島」が有名になった理由は…
現代の「売春島」としての名声が広まったのは、戦時中の出来事が関係している。
「1944年ごろ、香良洲に航空隊があった。そこには予科練が駐屯していたんですよ。で、その予科練を渡鹿野に分屯させ的矢湾沿いに潜水艦などを隠すための避難壕をあちこちに掘らせた」
約500人の予科練が島に駐屯し、民泊をしていたという。
「やがて終戦を迎え、500人の予科練たちは実家に戻り全国に散り散りになった。だから渡鹿野が釣りはもちろん、売春も盛んなことは予科練たちが知っているわけよ。そのため、戦後、その予科練たちが当時を懐かしみ再び島に遊びに来ることが頻繁にあった」
予科練たちの口コミによって、島の評判は全国に広まっていったのである。
三橋さんが中学生だった頃の記憶も興味深い。
「夜になれば野球拳をしている声が聞こえてくる。それを『煩いなぁ』と思いながらも勉強をやめてのぞいていたんだ」
朝は釣り、夜は宴会で野球拳──そんな島の日常が、男たちを魅了し続けた理由だったのかもしれない。
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