三島由紀夫の言う「からっぽな国」

落合 先崎さんが『国家の尊厳』というご著書で指摘されてましたけど、三島由紀夫が言うところの「からっぽな国」を引きずったまま、つまり戦後を卒業できないまま、日本は昭和と平成を終えて令和まで来てしまったわけですよね。アメリカから形式的に取り入れた制度はあっても、拠りどころは何もない。

先崎 三島由紀夫の話をする場合、すこし視野を広げて話をした方がいいと思う。三島が影響をうけた文学グループに「日本浪曼派」というのがあります。先ほど、高山樗牛に触れた際、ドイツ・ロマン主義の話をしましたが、昭和期に入り、この影響を自覚的に引き受けたのが日本浪曼派です。

 時代状況がどんどん悪化し、戦争不可避に追い込まれていくなかで、実際の政治的変革ではなく、ある種の精神革命をめざし、日本古典のなかに、自分たちの理想郷を探し求めます。それは同時に、明治以降の日本のあまりにも急激な「近代化」へのつよい違和感に支えられてもいました。

ADVERTISEMENT

 この知的サロンには、詩人の萩原朔太郎や伊東静雄などがあつまり、三島由紀夫に深い影響を与えているのです。ほんの一例ですが、1937年に朔太郎は、「日本への回帰」という評論のなかで、次のようなことを言っています。明治以来の日本は、強迫的に西欧の勉強をし、模倣しようとしてきた。その結果、治外法権も撤廃できたし、条約改正にも成功した。日露戦争にも勝利し、世界列強の一員にまでなることができたのである。

 その時、ふと、われにかえった日本人が、後ろを振り返る。すると、古くさいと否定してきた「家郷」は荒廃していて、日本的なものはすべて失われていたことに気づくのである。

 前方には、どこまで追いかけても追いつけない西欧文明がある。一方で、後方には、日本らしさを喪失した「家郷」があるばかりだ。ものまねの西欧モデルが日本の都会の表面的な繁栄を彩っている。たしかに電車も走っているし、きらびやかに俗悪なビルも林立している。でも、僕らは決定的な何かを失ってしまい、日本的なものを今さら探しても見つからない。

 こうしてさすらう日本人の姿を、朔太郎は「漂泊者」だと言ったのです。直接の影響関係はわかりませんが、こうした朔太郎の感覚を、三島は確かに引き継いでいた。三島の第一作『花ざかりの森』を読むとわかりますが、瑞々しい文体は、実は擬古典的な言葉でつむがれている。古典への回帰によってしか、「漂泊者」が安堵する場所はない。現実の日本には休める場所がないのです。

三島由紀夫 ©getty

落合 その問題意識は、三島の中で生涯変わらなかったと。

先崎 そう思います。彼は戦後日本への違和感を禁じえなかった。「このまま行ったら日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済大国が極東の一角に残るのであろう」という、昭和45年(1970年)7月のサンケイ新聞に書いた有名な記事があります。

 この記事から4カ月後、三島は市ヶ谷駐屯地に乱入し、憲法改正と自衛隊の国軍化を訴えてみずから処決しました。衝撃的な三島の死について、現在でも夥しい数の評論がでていますが、大事な論点が抜け落ちている。それを次に説明しましょうか。

令和日本をデザインする (文春新書 1511)

落合 陽一 ,先崎 彰容

文藝春秋

2026年3月19日 発売

最初から記事を読む だから日本人もアメリカ人も“みんな貧しくなった”…「金銭的ゆたかさ=国家の最優先事項」にした日米の大失敗【落合陽一×先崎彰容】