禁教令が解かれた後も、長崎のカクレキリシタンたちの多くはカトリック教会に復帰しなかった。なぜ彼らは「教会に戻らなかった」のか?

 その答えはきわめて単純だというのが、宗教学者の宮崎賢太郎氏だ。一体どのような理由があるのか。同氏の著書『潜伏キリシタン 知られざる信仰世界』(角川新書)の一部を抜粋し、現代におけるカクレキリシタンの信仰に迫る。

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何を拝んでいるのか

 まわりくどい表現ではあるが、誤解を避けるために、正確にいうならば、カクレキリシタンたちはキリストやマリアを拝んではいるのだが、それがだれなのかまったくわからないままに拝んでいるのであるから、本当にキリストやマリアを拝んでいることにはならない。それではいったい、どのようなものを拝んでいるのであろうか。

 キリスト教における神とは、教義的には、「父と子と聖霊」の三位一体の、唯一絶対なる存在である。一方、マリアは普通の人間であり、崇敬の対象ではあっても、崇拝の対象にはなりえない。しかし、実際にはマリアはカトリックの世界では、母なる神・女神として限りなく神に近い位置にまで高められている。

 長崎県下のカクレキリシタン集団のうち、長崎市内、長崎市近郊の外海地方、外海から移住した五島地方の信徒たちの信仰対象の中心は、「マリヤ観音」と呼ばれるものである。マリヤ観音は潜伏時代に入って、キリシタンが仏教を強制されたとき、発見されてもキリシタンと発覚しないように、純粋な仏教の観音像をマリアに見立てて拝んできたものである。

上五島若松町のカクレキリシタンが祀っていた陶磁器製のマリヤ観音二体(個人蔵)

心優しき母なるマリア

 しかし、信徒たちはマリヤ観音を拝むとき、これはあくまでもマリアの代わりであって、仏教の観音様ではないとしっかり認識していたわけではない。潜伏していたキリシタンたちが、もし真正なキリスト教徒であったとしたら、マリヤ観音よりも前に、何はさておき、まずはキリスト教本来の神である「キリスト観音」とか、「デウス観音」を祀るのが筋であろう。

 キリシタンとなった日本の民衆は、最初からデウスやキリストよりも、マリアの方をいっそう親しい神と感じていたのではなかろうか。もしそうであるならば、キリスト教ではなくマリア教と呼ぶほうがふさわしいかもしれない。